イベント星河鉄道で万里が演じた「ザニア」には、彼を待つ恋人がいたとしたら…という摂兵。すこしビターな終わり方です。
その列車は、星の河に沿って走るとくべつな寝台列車でした。りっぱな蒸気機関車を先頭に、上等な客車がいくつも連なっています。もちろん、蒸気なんて歴史の資料にすら残っていないむかしむかしの技術ですから、その乗り物が鉄の線路の上を走っていたなんて知っている人はいません。これ以外はもうどこにも走っていないヘンテコなそれを、人々は「星河鉄道」と呼んでいました。
星河鉄道は、きらめく星の河を眺めながら、宇宙を走ります。あちらは黒と青、こちらは明るい橙と赤銅がまざったような色。星のかがやきにあわせてじつに迷彩な空が、ずっとずっと向こうまで続いています。
『みなさま、右の窓をご覧ください。オリオンの赤星、ベテルギウスが見えてまいりました。この列車はアルデバラン、ペルセウスを眺めながら、アンドロメダの彼方まで参ります。永い旅路にはなりますが、どうぞ旅をお楽しみください』
車掌の落ち着いた声で、アナウンスが流れます。今日の星河鉄道は、航路を宇宙の彼方に定めてぐんぐんと翔けています。
いつもは月に願いをかけるお客を運ぶ星間航路を走る列車でしたが、この日は特別です。銀河の向こうには神様がいて、そこに呼ばれた人たちを連れていくのが仕事なのでした。
列車がペルセウスの星雲を横目に通り過ぎたころ、ザニアに休憩の順番がまわってきました。久しぶりの長期航行で疲れていましたが、それよりもずっと長旅への楽しみの方が勝っていて、いつもよりずっと元気な気分でした。
ザニアは最後尾の展望デッキに向うことにしました。なにしろアンドロメダ銀河までの旅は初めてでしたから、星屑の海をもっと広く眺めたいと思ったのです。
展望デッキに出ると、宇宙は静かでした。青黒い空間にうっすらと白い星雲の筋が流れているところもあれば、星の密度が高いところなんかはもっと青白くて、ところによれば赤でした。視線を落とせば、車体が金の川をかき分けて進むように軌道がきらきらとはじけています。乳を含んだ光の穂を撫でで進むように、きらきらと金と白の粒がザニアの目を楽しませてくれています。
「おや。先客がいたね」
不意に後ろから声がしてそっちを見ますと、背の高い老紳士が立っていました。すらりと長い体はどこも曲がっていなくて、ただ白い髪と上品な皺のある顔だけが、彼が老人であることを説明しているのでした。
「すみません。すぐに戻りますので」
ザニアは恐縮して言いました。
「いやいや、いいんだよ。帽子を被っていないということはきみ、休憩中だろう。構わないよ、ここにいなさい」
老紳士はおっとりとした声は聞き心地がよい低音で、暗く輝く宇宙にぴったりでした。
「――切符を、拝見しましたね」
ザニアはその老紳士を知っていました。彼が乗り込んできた時、切符を確認したのです。
「そうだね、お仕事ご苦労さま」
それきり老紳士は黙り込んで、赤いほうの星雲をじっと見つめていました。それはまるでじぶんのいき先を探しているようにも思えました。ザニアは少しそわそわしてしまって、老紳士から逃げるようにそっぽを向きます。
そんなザニアの気持ちなんか知らない宇宙はやっぱり立派で、河のような海のような、夜の砂漠にも見えるような、静かで穏やかな場所でした。こんなにたくさんの星がきらめいているのに、そこなにがあるのか見つけることがザニアにはできません。星河鉄道は、そうして確実に無へと向っているのでした。
「きみ、銀河の果て便はこんなに静かなものなのかね」
また後ろから声をかけられて、ザニアが振り向くと、老紳士は祈るように胸に手を当てて、何もない銀河の向こうを眺めていました。
「ええ、ええ。俺も銀河の果て便は初めてですけれど」
星河鉄道の乗組員になって随分と経つけれど、アンドロメダ銀河へと向う便「銀河の果て便」ほど静かな路線はないように思いました。
乗ってくる人は落ち込んでいたり寂しそうだったり、ある人はすごく苦しそうだったりしています。けれども、星河鉄道がぐんぐんと進んでいくうちに、みな穏やかな顔になっていくのです。
ザニアが初めて会ったこの老紳士も、初めはひどく寂しそうな顔をしていました。けれども彼が「切符を拝見します」と言うと、老紳士は目を丸くして、まばたきの瞬間だけ哀しそうにして、すぐに笑顔になったのでした。
「これじゃあどれだけ時間が経ったかわからないね。きみ、いま何時だい?」
尋ねられて、ザニアは咄嗟に胸ポケットから懐中時計を取り出しました。けれどその時計は、ずいぶん前から止まっていて、意味のないものでした。
「や、すみません。俺の時計、止まっているんでした」
ザニアはにわかに恥ずかしくなって小さくなりました。乗務員の時計が止まっているなんて、なんとも決まりが悪い気がしたのです。
「止まっているのに、捨てないのかい?」
「直したらまた使えるかも……と思ったら、少しもったいなくて」
それは半分本当で、半分でたらめでした。ザニアの懐中時計はやけに古びていて、ねじのところが錆びているみたいに回らないのです。そこだけが問題なら直してしまえばいいものを、直す気にもあまりなれません。では捨ててしまおうかと何度か考えましたが、そう思うたび、心の隅がきゅうっと痛くなって、どうしようもなくなるのでした。
そもそも、ザニアはこの懐中時計をどうして持っているのかわかりません。星河鉄道の乗務員に呼ばれたとき、彼は一度記憶を失いました。鉄道での宇宙旅行に魅せられて正式に乗務員になってからは、そっくり記憶を取り戻しているつもりでしたが、どうしてもこの懐中時計のことだけは思い出せないのでした。
「貸せ。巻き方にコツがあるって、いつも言ってるじゃねぇか」
老紳士は突然粗野な口調になって、ザニアから懐中時計を取り上げました。彼は慣れた手つきでねじを摘まむと、一度押し込んで、カチカチと回し始めます。どんなに回しても鉛のようにうごかなかったねじが、カチカチ、カチカチと巻かれていきます。老紳士が時計を巻ききると、中で腐っていた歯車が、息を吹き返したように時を刻み始めます。ザニアはその秒針が動くのを初めて見たはずなのに、やけに懐かしく感じるのでした。
「すごい。お客さんは、時計屋さんですか?」
「……まぁ、そんなところだよ。ほら、またねじが切れそうになったら、少し押しながら回してごらんなさい」
チクタクと時計の秒針が動く音が、やけに大きく聞こえます。それはまるで時計の鼓動のようでした。ザニアはすっかりうれしくなって、時計を耳に当ててその音に聞き入りました。
「ああ、時計が動いたから、もう行かないと」
老紳士は静かに言って、銀河の向こうを眺めました。そこにはさっきまでなかったはずの、不思議な光の渦ができています。真ん中にぐるぐると銀河の目があって、上に向かって願いの塔が伸びています。
ザニアははっとして車室を振り返りました。すると、車室から光の玉がいくつもいくつも、願いの塔に向かって吸い込まれていきます。それはまるでホタルの大群ようで、綿毛の大移動のようでした。
「もうすぐ目的地に着くらしい」
老紳士は静かにそう言いました。目的地に着くと、乗客は降りていき、二度と帰りません。
「あなたは、どこへいらっしゃるんですか」
ザニアは不思議に寂しくなりました。こころやすい、大切な人との別れのような、不安で哀しい気持ちでいっぱいでした。
「……人を探しにいくつもりだったんだけどね。もう、その必要もないようだ」
老紳士は願いの塔に消える魂を、愛しそうに眺めています。
「あの向こうに、居るんだと思っていた」
誰が、とザニアが尋ねる前に、目の前の老紳士の体が光に包まれていきます。
「月に行ってくるって言ったきり、戻らなかった馬鹿野郎がいてな」
輝く老紳士の姿が、みるみるうちに若返っていき、ザニアと同じくらいの青年に変わりました。見事な白髪は濃い紫色に染まり、凛々しい眉の下にきらめく鋭い眼光は、この宇宙のどの星よりもきれいでした。
「待っても待っても、便りのひとつも寄越さねぇ。広い宇宙のどこかで迷子にでもなっちまったのかと思っていたが……」青年は泣きそうな顔をして、ザニアの頬に手をやりました。
「こんなところに居やがった」
ザニアには青年の言っていることが分かりません。分かりませんけれど、胸の奥がぐっと寂しくなりました。その理由を早く見つけないといけないのにという気持ちがあふれて、自然に焦りがこみ上げてきましたが、ザニアにはどうしていいのか分かりません。
「お客さん。あの……」
「良い旅を、乗務員さん」
青年は不器用に微笑んで、光の粒になって願いの塔へと吸い込まれていきました。向こうのことはもう、ザニアにも車掌にも分かりません。
「よい……旅を」
ザニアは彼の言葉を繰り返し、懐中時計を耳にあてました。カチコチ、カチコチ。刻む秒針と歯車の音が、ザニアの心を癒やすようで急かすようでもありました。
彼が月に落とした思い出は、あと一つ。その一つがとてもかけがえのないものだったことを知る者は、もうどこにもいません。
ザニアはそっと目を閉じて、時計の音に聞き入りました。
乗客の居なくなった星河鉄道は、くるりと進路を折り返して、元来た道を帰ります。光の穂はきた時より少し寂しくて、金剛石は少し曇って見えました。するとザニアの心に思い浮かぶのは、青年の美しい金の瞳だけでした。ザニアは願いの塔が見えなくなるまでずっと、銀河の向こうを眺めているのでした。
END