はつこい

摂兵♀のおはなし。以前ぷらいべったーにのっけたヤツをちょろっと手直ししました。
あんまり後味はよくない

※十座先天的女体化
※モブ(名前あり)×十座♀
※摂兵♀未満

「えっ、テンプレヤンキーのデートの相手って、アンタじゃなかったんだ」

「は?」

  怪訝な表情を返すと、幸は「しまった」という顔をした。

「ううん、なんでもない。違うならいい。忘れて」
「待て待て、話が見えねーんだけど?」
 万里は受け取る間もなしに引っ込められた会話のボールを、無理やり取り上げた。
「だから、違うならいいって言ってんでしょ。カンケーないじゃん」
 幸の態度はツンとつれない。本気で話題を広げるつもりはないようだが、万里にとっては関係ないで済む内容ではなかった。
「兵頭がデートってどういうことだよ」
「知ってどうするつもり?」
 何をそんなに警戒しているのだろうか、幸のきつい視線が刺さる。
「そりゃ……まぁ、気になるだろ。あの恋愛のレの字も知らなそうなゴリラ女がデートなんて。面白そーじゃん」
 万里は常から、十座の不器用な生き方を揶揄するような態度を取っていた。実直で健気な彼女の姿にどうしようもなく惹かれているくせに、素直に認めようとはしない。それは彼がこれまでに構築してきた自分自身のイメージ保つための防衛本能……平たくいえばプライドがそうさせているのだ。何でもできて人間関係もそつなくこなし、人との関わりを恐れたことなんで一度もない。そんな自分が、恐れられることに傷つき他者との接触に臆病になっている不器用な女に恋焦がれているなんて、簡単には認められることではなかった。
 だから万里はいつもように「十座のことが気になるのは、慣れない人付き合いに四苦八苦する姿が面白いから」という嘘八百の大義名分を高らかに振りかざした。幸はそんな万里に盛大なため息をくれてやり、踵を返す。付き合ってられないという呆れが言外に滲み出ていた。
「あんたさ、そういう所だよ。オレからは何も教えてやんない。気になるなら莇に聞けば?」
 幸は一瞬だけ万里を憐れむような視線を向けて「十座の浴衣、似合ってた。誰のためのオシャレだろうね?」と吐き捨て、談話室を出て行った。どうして責められるような言い方をされなければいけないのか。万里は無意識に眉間のシワを深くした。
「何なんだよ……つか、莇まで関わってんのかよ」
 こうなったらとことんだ。中途半端な情報を寄越されたままでは気持ちが悪い。その真相を突き止めるまではこの話題から身を引く気はなかった。しかし、友達もろくに居ないような女が、デートなんて浮ついたことをカンパニーの仲間たち以外でできるはずもない。おおかた臣か一成か、はたまた弟の九門とどこかに出掛けたというのがオチだろう。それさえ確認できれば、尻の辺りがムズムズするおかしな感覚から開放されるに違いない。そして「やっぱり兵頭恋愛なんてありえない」と己を安心させるのだ。
 どうして安心を求めているのか、察しのいいはずの万里はまだ気づかなかった。

「は? 万里さん何でまだ居んの。……アンタじゃなかったのか、相手」
 莇の部屋を訪ねると、彼は幸と似たような反応をした。莇は左京が仕事で不在の106号室でせっせとコスメの整理をしているところだった。
「それ幸にも言われたんだけど、どういうことだよ? 俺知らねぇし」
「ふーん。じゃあアンタ以外の誰かとデートに行ったってことだよな、十座さん」
 莇は十座がデートに出掛けた相手が万里じゃなかったことにそれほど驚かなかったようで、幸よりストレートな物言いをした。
「誰かって、誰だよ」
 万里はどもりそうになる言葉を必死で抑えて、努めて世間話を装った。
「さぁ? でもおかしいと思ったんだよな。『なるべく女に見えるようにしてくれ』って。普通に女に見えるけどあの人。どうしてもって言うからあの人に似合うギリギリのラインで甘めのメイクしといた。アレ結構自信作。また練習させてもらおうかな」
 なんだそれ、と思った。あいつがいままで、自分を女に見せたいと思ったことがあっただろうか。男勝りの強面で、拳じゃ大体の男は敵わない。口下手でぶっきらぼうで無愛想。女に生まれてきたことで人生のハードルが数段上がってしまっているような男女だ。十座自身もそれを自覚していて、女でいることをどこか諦めているようなきらいがあった。
 だから万里は慢心していたのだ。兵頭十座が誰かの手によって女になることはあり得ないと。
「ど、どうせ臣とか一成と遊びに行ったんだろ」
「臣さんは今日から里帰り。一成さんはさっき中庭で三角さんと絵描いてた」
「じゃあ…」
 万里は冷や汗をかきながらほかの仲間たちの顔を思い浮かべる。左京、至、千景は仕事中、密と紬もバイトに行っている。誉は数日前に詩興が湧いたとかで缶詰状態だし、東は所用で出かけている。丞は客演で出張中だ。だからきっと、十座は学生組と出かけたに違いない。
「多分、俺らじゃねぇよ。わざわざ実家から浴衣持って来てメイクまでして。俺ら相手ならめかし込む必要ないし、大学で彼氏でもできたんじゃね」
 がん、と頭を殴られた気がした。同じ寮、同じ部屋で過ごしているとはいえ、大学が違うのだから彼女の生活に知らない部分はある。その中で誰とどんな関係を築いているのかなんて万里にはあずかり知らぬことで。そこに「恋愛」というセクションが刻まれていても不思議はない。だけど、よりにもよって十座に誰かと愛を育む機会があるなんて。考えただけで腸が煮えたぎるようだ。
「…そうか。残念だったな、出る前にからかってやればよかった」
 万里はまた、心にもない嘘をついた。

 その日は年に一度の花火大会で、河川敷から打ち上る花火を見に、または出店を目指して大勢の人が集まる。MANKAIカンパニーの面々も一部は出かける予定があったようだが、万里はさして興味がなかった。まして誰かのためにわざわざめかし込んだ十座がどこかに居て、その隣に見知らぬ男が居るとなれば、ますます行く気は失せた。ノコノコと出て行って、十座が自分以外の誰かに女の顔を見せているところを目撃してしまえば、何かが壊れてしまう気がした。
 寮に居ても風に乗って花火の音が聞こえてくるだろう。だけど、イヤホンをつけてやや大きめの音量でゲームを始めると、外界の雑音はほぼ完全にシャットアウトすることができた。
 ゲーム内の体力ゲージが尽きかけた頃、部屋の鍵がカチャリと開いてドアが控えめに開かれた。外から鍵を開けられるのは自分以外には一人しかいない。部屋に滑り込んできたのはやはり十座だった。時間は22時を少し回った頃だが、花火が終わって帰ってきたにしては少し遅い。
「おかえり」
 ベッドから顔を上げずに声をかけると、十座がびくりと大げさに驚いたのが気配で分かった。
「……ただいま。居たのか」
 十座はそそくさと自分のベッドの下に潜り込み、タンスから着替えを取り出しているようだ。万里には見せられないといった様子が面白くなくて、万里はベッドを降りて大股で十座に近づいた。退路を塞ぐように彼女の背後に立ち、晒されたうなじに向かってやや刺すように台詞をつなぐ。
「ずいぶん遅かったじゃねぇか。夜遊びしてっとウチのヤクザにドヤされんぞ」
 仮にも女なんだから、という言葉は飲み込んだ。見知らぬ誰かさんの後追いで十座を女扱いしているようで癪だったからだ。
「ああ、悪ぃ。今度はもう少し早く帰ってくるから」
 十座は俯いたまま、たどたどしく応える。今日みたいに出掛ける時がまたあるというのか。顔を見せないのが癇に障って、万里は十座の肩を掴んで無理やりに振り向かせた。
「やっ、なに……」
 そして万里は後悔する。
 眼前に晒した十座は、万里の記憶の中にはどこにもいない―――女の姿をしていた。
 急に肩を掴まれて戸惑いに揺れる瞳は不自然に濡れ、涙の筋が目尻のアイシャドウを少し流して頬を伝っている。今どきの女がこぞって塗りたくっているような少し濃いめのルージュはこすれてやや乱れ、唇の端からはみ出してしまっている。莇がしっかりとセットしただろう髪型は気だるげによれて、幸が着付けたであろう絞りの浴衣は合わせの部分が不自然に崩れている。
 万里の視線に気づき、十座はさっと合わせを正したが、もう遅い。年頃の女が夜遅く、泣き乱れ着崩れた浴衣で帰ってきたとなれば、その理由はだだ一つ。
「別にお前がどこで何してようと俺には関係ねぇけどよ、芝居に響くようなことはすんなよ。迷惑だ」
 思ったより冷たい声が出た。万里はそう言い放つと、十座の返答を待たずに部屋を出た。誰かに乱された十座の姿をこれ以上見ていたくなかった。

 十座が大学内でとある男子学生と親しげに話していたと暴露したのは綴だった。学年の違う彼にはその男がどこの誰かは分からないが、雰囲気からして同じ学部だろうという。昼時は綴か臣、もしくはアンサンブルとしてカンパニーに関わっている学生たちが居ない限り一人で過ごしている十座が、カンパニーとは全く関わりのない男子学生と交流しているのは綴にとってもそれなりのニュースだった。
 だから、仲間の大半が揃った談話室でそれが話題に上ったのはごく自然のことで。夕食を終え、風呂も順番に済ませてあとは寝るだけの空き時間をめいめいに過ごしているときに、綴が思い出したように十座へ「最近いっしょに居る男子学生は誰か」と問い掛けた。すると恋愛ごとに敏感な太一が食いつき、九門が泣きそうな顔をしてソイツ誰だよと喚き、椋がお決まりの少女マンガ妄想で話を無駄に大きくさせて、あっという間に十座の逃げ道は断たれてしまった。
 そいつは誰なんだと詰め寄られて、十座はついに観念してぽつりぽつりと話し始めた。
「……同じゼミのやつだ。先月、好きだって、言われた。他人に好きだって言われるのなんて初めてで……」
 そう言った十座の頬は赤く、緩く微笑む唇が愛らしい。まるで初めて恋を知った少女のような……いや、きっとこれが彼女にとっての初めての恋なのだろう。戸惑いと、期待と、うぶな色気が詰まった乙女の顔だった。万里はそんな顔をまざまざと見せつけられて、ざっと血の気が引いていくのを感じた。彼女の唇が再び動こうとした時、耐えられなくなった万里が乱暴に立ち上がり十座の言葉を遮る。付き合うことにしただなんて、聞きたくもなかった。
「初めてだったら誰にでもホイホイついて行くんかよ。ハッ、硬派気取って、実際は大した尻軽女じゃねぇか。そういうのマジで軽蔑するわ」
 据わった目で十座を射抜く。すると彼女は何故か、ひどく傷ついた顔をした。
「ちょっと万里、言い過ぎ」
 すかさず至がたしなめたが、万里は盛大に舌打ちをして自室に引き返してしまった。
「十ちゃん、大丈夫?」
 小さくなってしまった従姉の背を、椋の手が優しく撫でる。
「大丈夫だ。摂津が言うことは正しいから。……俺はきっと、最低な女だ」
 悲しげに呟いた彼女の言葉の真意を、今はまだ誰も知らない。


 彼の告白は唐突だった。その日の授業は午前中までで、帰って自主練でもするかと正門に足を向けてたとき、不意に呼び止められた。振り向くとそこには、一人の男子学生が立っていた。彼は同じゼミでごくたまに顔を合わせることがある程度の同期生で、名字が『花塚』ということ以外に十座が知り得た情報はあまりなかった。
 専攻が固まっていない大学1年生のゼミは、出席番号順に組み分けされる。花塚は十座のひとつ前の出席番号を与えられていて、ゼミのオリエンテーションの際に一言「よろしく」と言葉を交わしたきりだった。病気がちのため講義への出席率が低く、影も薄い彼は同期生の誰の印象にも残りにくい……そんな人物だった。だけど十座は大学で他人と言葉を交わす機会が少ないので、花塚のことは覚えていた。
「兵頭さん、いま帰りかい」
 おっとりとほほ笑む花塚青年は、十座が今までに出会ってきた誰よりもか細く、繊細な男であった。
「ああ……花塚、くん。今日は体調いいのか」
「花塚でいいよ。俺のこと覚えててくれてたんだ?」
 誰も俺の名前なんて覚えてないと思ってた、と自嘲する彼の表情に、悲しみややるせなさはない。それが「慣れ」であることを十座には理解できた。彼女もまた、恐れられ遠巻きにされることに「慣れ」ていたからだ。
「オリエンテーションの時、病気で休みがちになるって言ってただろ」
 花塚は自己紹介で「持病のため休みが多くてなかなか話す機会がないと思うけど、よろしくお願いします」と短い挨拶をしていた。残念がるでも、申し訳なさそうにするでもない。淡々と告げられた事実がどこか哀しくて、十座はよく覚えていた。
「兵頭さんって記憶力いいんだね。すごいなぁ、さすが役者さんってところかな」
「あんたこそ、俺が芝居やってるの知ってたのか」
 十座は目を丸くした。役者であることはオリエンテーションのときには言わなかったことだ。どうして花塚が知っているのだろう。
「やだな、うちの学部じゃ有名だよ。きみと皆木先輩と伏見先輩が同じ劇団に所属して、お芝居をしているって。結構ファンもいるんだよ。実は俺もその一人でね、きみの公演を見に行ったこともあるんだ」
「そうなのか」
 十座は急に照れ臭くなって、小さくありがとうと呟いた。劇場の外で観客と触れ合うことなんてそうそうなくて、どう反応していいのか分からない。
「普段のきみはこんなに魅力的な女性なのに、舞台に立つとカッコイイ男の人に大変身するんだから、すごいよね」
「み、みりょくなんか」
 およそ女らしいところなんてないと自身に暗示をかけている十座にとって、女性性を称賛されることほど恥ずかしいものはなかった。けれどもそれが屈辱かといえばそうではなく、ただただ身にそぐわぬことだと申し訳なく、恥ずかしくなるのだ。
「俺は見ての通り野郎みてぇなナリしてるから、男役のほうが似合うんだ」
 乱暴で不器用な自分が嫌で、他の誰かになりたいと願っていた。自分じゃなきゃ誰でもよくて、もしかしたら男になりたいという気持ちもあったのかもしれない。舞台に立つとその願いが一時であれ叶う。なりたい誰かになるために、努力を重ねて技術を磨くのは楽しい。仲間たちと互いに高め合いながら芝居を作っていくことほど、己を感じられる生き方はないと思う。今の十座にとって、自分が生きる場所は板の上にあると確信できる。だから、板を下りた自分を見つめるのはまだ少し苦手だった。
「そうかなぁ。俺はきみのこと、とっても綺麗な女の子だと思うよ」
 花塚が穏やかに言葉を紡ぐ。おっとりとか細い声なのに、有無を言わせない意志の強さがあった。
「……からかうのもいい加減にしてくれ」
 兵頭十座という人間をして「綺麗な女の子」だなんて笑わせる。自分は目の前の青年より背が高くて、目つきが悪い。綺麗なんて言葉とは一番かけ離れているのに、悪びれもせず花塚は嘯く。俺なんておだてて何の得になるのだろう。十座の胸が不信感で満たされていく。もしかして、同じ劇団の誰かに近付きたいとか、そういった思惑があるのだろうか。あまりにも実感のない賛辞はかえって頭を冷やす。代わりに湧いて出た警戒心が、十座の表情を強張らせた。
「怖い顔しないでよ。俺は本心を言っているんだけどな」
 十座がひと睨みすれば大体の人間は喉を引きつらせて後ずさるというのに、花塚は全く動じない。それどころか、一歩、一歩と近づいてくる。
 そしてすぐ目の前で立ち止まり、線の細い男はゆったりとほほ笑んでこう言った。

「俺、兵頭さんのことが好きなんだ」

::::::


 好きだなんて、家族以外から言われたのは初めてだった。だって当たり前だ。俺のような人間は恐れられこそすれ、好意を向けられる方が不自然だ。視線を向けるだけ、声を出すだけで誰かを傷付ける。そんなつもりは毛頭ないし、普通に話したいとも思う。だけど相手が少しでも怖がるような仕草を見せると、どうしようもなく悲しくて、怖くなっちまう。本当はそれがダメなんだ。きちんと話せばいい。傷つけるつもりはないと釈明すればいい。眉間のシワを解いて、愛想笑いをすればまだ違う。だけど口を開いて声を出そうとしたら、息が詰まって何も言えなくなる。どうせ昔のように、何を言っても信じてもらえないだろう。受け入れてもらえるはずがない。そうやって殻に閉じこもって、世界中で自分がいちばん悪いような顔をして、悲劇に浸る哀れな人間。殻の破り方が分からなくて、俺は俺を否定した。それなのに、そんな俺を好きだなんて。


「けっこう冷房効いてるね。寒くない?」
 考えに没頭していると、隣から花塚の声がした。十座は沈んでいた意識をくっと持ち直す。
「ああ、大丈夫だ」
「そう? じゃあ俺が寒いから、手を握ってもいいかな」
「えっ」
 だめかい? なんて眉を下げながら請われたら断れなくて、十座はおずおずと花塚に自分の手を差し出す。するとすぐに彼の手が包み込まれた。言う通りに、その手は少し冷たかった。
「ね、つめたいでしょ。寒いけど、冬の夜を映したプラネタリウムだもの。少し寒いくらいがそれっぽいかもね」
 花塚が可笑しそうに笑う。十座はこの日、花塚につれられてプラネタリウムに来ていた。外の気温は35度を超える真夏日なのに、その日の演目は冬の星空だという。季節感を無視した大胆なチョイスだが、冬に向けての予習だと思って無理やり納得しておいた。公演開始までの待ち時間、まだ何も映っていないドーム状の天井を眺めながらコソコソと小声で会話をする。同じように言葉を交わすカップルの甘いささやき声が耳をかすめ、十座は自分たちも他人の目にそう映っているのだろうかと考えると頬が少し熱くなった。
「体を冷やすな。ブランケット、ちゃんとかけてるか?」
 そう言ってひざ掛け用に貸し出されたブランケットを直してやっていると、花塚はくすぐったそうに笑った。
「お姉ちゃんみたいだね、きみ」
「弟が居るからつい……気分を悪くしたらすまねぇ」
 年上面してしまうのは長女の悪いところだ。たとえ相手が同い年であろうと年上であろうと、ふとした瞬間にお節介な姉が顔を出す。
「どうして? 美人の彼女に甲斐甲斐しくお世話されて、嬉しくないはずがないじゃない」
 しかし花塚は気分を害するどころか、とても上機嫌だ。指と指が絡み合うように握り直されて、十座の手は逃げ道を失う。
「お世辞言っても、何も出ねぇぞ」
「お世辞じゃないよぉ。きみって本当にきれい」
 うっとりと見つめてくる花塚の視線が恥ずかしくて、十座は逃げるように目を伏せた。すると長いまつ毛が頬に影をつくり、花塚はさらに「美しいな」と胸中で感嘆した。
「俺のことは忘れていいけど、きみはきみが思うよりずっと素敵で、きれいなことを忘れないで。容姿が整っていることもそうだけど、何事にも真摯に向き合うその生き方が俺は好き。太陽みたいにギラギラはしていないし、月のように傍にはいない。だけど星がごまんと輝く夜空の中で、ひときわ煌めく一等星がきみだ」
 初めて彼女を見た時、なんだか集団に居ることを申し訳なさそうにしている子だなと思った。あんなに綺麗なのに、と思ったのが最初。それから風の噂で彼女が舞台役者であることを知り、所属する劇団の公演を観に行った。するとどうだろう、舞台の上の彼女は堂々と自分をさらけ出し、劇場の隅々までよく通る声で演技をしていた。その姿には大学で見た生きづらそうな雰囲気はなく、ここが居場所だと言わんばかりにのびのびと「生きて」いた。花塚はそんな十座に惹かれた。ひとめぼれならぬ、ふためぼれ。
 自分と同じように周囲との関わりを諦めながら、しっかりと己の生を外の世界に知らしめる術を持っているひと。自分がやりたいと思っても出来なかったことを、一生懸命にしているひと。太陽のように分かりやすくはなく、月のように誰かの光を待っているわけでもない。同じような光ならたくさんある。だけど十座の煌めきは、満天の星空の中でいちばん美しい。だから彼女は、花塚にとっての一等星なのだ。
「……意外に気障なことを言うんだな」
「そうかい? 俺も文学部生の端くれだもの、多少はね」
 おどけて見せた花塚に、十座は怒っていいのか照れていいのか分からなくて「勝手にしろ」と会話を切って天井を見上げた。するとちょうどアナウンスが始まり、証明が静かに落ちる。真夏に見る冬空のショーは、なかなか乙なものだった。

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「監督、千秋楽のチケット、一枚押さえさせてくれねぇか」
 秋組のリバイバル公演を控えたある日。十座から珍しいお願いを受けていづみは目を丸くした。
「まだ余裕はあるからいいけど……誰か呼びたい人がいるの?」
「ああ……その、悪いができたら、舞台がいちばんよく見える……最前列の真ん中を」
 そこは役者も観客の視線を最も意識しやすい場所だ。そんな場所に誰かを呼びたいということは。
「あっ、例の彼氏くんを呼びたいの?」
 いづみは己の乙女心が疼くのを感じながら少し踏み込んだ質問をした。本来なら褒められたことではないけれど、十座とは気の置けない関係であるし、初めて好きだと言われたという恋愛初心者の彼女に対する老婆心が働いた。恥ずかしがり屋の彼女の事だからはぐらかされてしまうかと思ったが、十座は案外素直にうなづいた。
「今度の公演は見たことないヤツだって言ってたから……もし迷惑なら、後ろの方でも構わないから」
「そんなことないよ。押さえておくね」
 頬を染めてしどろもどろしながら「お願い」する十座が可愛くて、いづみは二つ返事で特等席の提供を約束した。かわいい妹分の成長を見たようで、いづみは自然と微笑んだ。


 公演が始まれば時間は矢のように過ぎ去り、いよいよ千秋楽を迎えた。連日大盛況の劇場は今日も満席。万里は舞台袖から客席を覗き、最前列に不自然な空席があるのを認めた。あそこは十座が監督に頼んで空けてもらった席のはずだ。わざわざ一等席を恋人のために用意する十座に腹が立ったし、開演5分前になっても姿を現さない男にもムカついた。しかし幕が上がればそんなことも気にしていられなくなる。与えられた役と、自分の意識がシンクロする。それは十座も同じことで、芝居の間彼女が最前列の空席を気にかけることはなかった。


 結局、幕が降りてもその席が埋まることはなかった。

 万里は十座の姿を劇場で見つけた。恋人のために用意したあの席に腰掛け、背中を丸めて俯いている。
 その席に誰も来なかったということは、十座と見知らぬ男の関係によくない結果がもたらされたのではないか。万里はその思考に行き着いたとき、胸の底に喜びに似た感情が湧いてでたのを感じた。
「誰も来なかったな、そこ」
 万里は十座の隣に腰掛けて、できるだけ自然に、何も知らないふりをして話しかけた。
「……今朝、がんばれって、楽しみにしてるってメッセージが来たんだ」
 俯いたままの十座が零した声は涙に濡れていた。まさか泣いているとは思わなくて、万里はどきりと胸を強ばらせた。
「でも、来なかった。来れなかったんだ」
「来れなかった?」
 聞き返すと、十座はゆっくりと顔を上げた。その瞳はやはり涙に濡れている。
「今朝、俺にlimeを送った直後。急に苦しみ出して、そのまま……死んじまったって。さっき、あいつの母親に聞いた」
「は? 死んだって……ウソだろ」
 だって、相手は大学の同期生。自分たちと同い年くらいのはずだ。
「もともと、心臓の弱いやつだったんだ。医者から余命宣告も受けてて、長く生きられないことも覚悟してたらしい」
「いや、待てよ。じゃあ自分が死ぬって分かっててお前に告白したのか!?」
 それはあんまりだ、と万里は思った。死ぬと分かっていて誰かに告白するなんて、未来がないのに相手を縛り付けるようなものだ。
「……そういう約束だったから」
 十座はぽつりぽつりと震える声で語り始める。
「あいつが俺を好きだと言った日、ぜんぶ聞いた。ガキの頃から病気がちで、友達もろくにできなかったこと。病院通いのせいで誰の記憶にも残らない影の薄いやつだったこと。そんな人生も、そろそろ終わりだってことも」
 あの日、花塚はとある『お願い』を十座に語った。余命幾ばくもない自分の最期の願いを、他でもないきみに聞いてほしいと。
「もうすぐ死ぬなら、死ぬまでにやりたかったことを一つだけ叶えてしまおうと思ったらしい。それが俺に好きだと伝えることだった」
 こんなにも人を好きになったのは初めてだ、と花塚は言った。
「きみみたいな人と、恋人になりたかった。もし迷惑でなければ、フリでいいから少しの間、俺の恋人になってくれないか……あいつは死ぬことを受け入れた顔をしてそう言ったんだ」
 友達でもないきみにこんなお願いをして申し訳ないけど、と笑った彼の微笑みが忘れられない。あれは生きるのを諦めた顔だった。
「確かにあいつと俺は友達ですらない。だけど、あんな顔を見せられて、ほっとけるはずがなかった……人生の終わりに俺との時間を選んでくれたなら、それに応えてやりたいと思った」
 花塚のことを憐れだと思ったわけではない。ただ、余命を抱えて生きざるを得ない自分を諦めることで受け入れてしまった姿に共感してしまったのだ。花塚にはままならない現実に背を向ける道も、真っ向から立ち向かう時間も残されていない。一人きりのまま、人知れず死んでいく運命なのだ。それはどれほど心細く、恐ろしい現実なのだろう。そう考えると、手を差し伸べずにはいられなかった。
「バカじゃねぇの? もうすぐ死ぬから記念に付き合えって行ってきたヤツに体も許したってのかよ」
「何のことだ? そんなことはしていない」
 万里のとげとげしい声に十座は戸惑った。花塚とは、仲良しの子供のように手を握る以上のことはしていないのだから。
「じゃあ、花火大会から帰ってきたときの悲惨なナリは何だったんだよ! あんなのセックスしてきたトコにしか見えねぇだろ!」
 しらばっくれる十座に腹が立った。もうすぐ死ぬという男のために浴衣を着て、夜遅くに帰ってきたあの姿が頭を離れない。唇からはみ出たルージュは乱暴なキスのせい。崩れた浴衣の合わせから、男の手が侵入したに違いない。そして泣き乱れた顔が全てを語っていた。人助けにしてはやりすぎだ。どうしてもっと自分を大事にしないんだと怒りばかりが募っていく。
「セッ……ばか、してねぇよ! あの時は……祭りの最中にガラの悪いヤツらに絡まれて、あいつが居るから走って逃げるわけにもいかなくて、まともに喧嘩したんだ。浴衣で殴り合うのは初めてでうまく動けなかったのと、相手が5人居たから結構手こずって……なんとか片付けられたけど、心臓の悪いあいつに負担を掛けちまったみたいで、発作が起きたんだ。すぐに救急車を呼ぼうとしたけど、少し休めば大丈夫だからって言って、その場で呼吸が落ち着くのを待ったんだ」
 このまま救急車で搬送されると、死ぬまで病室から出られない。少しすれば落ち着くからと言って聞かない花塚の頭を膝に乗せ、十座は彼の呼吸が整うのを待った。
「俺のせいでこいつが死んじまったらどうしうようって思うと怖くて……ずっと泣いてた。あいつは苦しいくせに俺のこと気に掛けてくれて……」
 つまり、あの乱れた着物は喧嘩をして掴まれたから。泣き乱れた表情は、花塚が死ぬかもしれないという恐怖から。万里が考えていた体の関係は、どこにもなかった言うのだ。だけど、だとしても。
「やっぱりバカだわお前。そんなの引き受けねぇだろ、普通」
 万里の罵声を十座はまともに受け止めた。そう、バカだったのだ。
「ああ、お前の言う通りだ。俺がバカだった。あいつは真剣に、俺が好きだと言ってくれた。あいつの言葉はどれもウソじゃなかった。なのに俺は……好きだと言われたことが嬉しくて、死にに向かうあいつの顔が哀しくて、あいつの力になれるならと『恋人のフリ』を買って出た」
 軽い気持ちで引き受けたつもりはない。だけど、こんなに苦しくなるなんて思ってもみなかった。花塚の十座への想いは本物だった。だけど、十座の胸の中にはそれと同じ「本物」が芽生えることはなかったのだ。
「あいつは俺を真剣に愛してくれたのに、俺は同じものを返してやれなかった。あいつのことは好きだと思う。死んでほしくない、もっとずっと一緒に居たいとも思った。だけど、俺にはそれが『恋』だったのか、あいつが死んだ今でも分からないんだ」
 言い終わらないうちに、十座の瞳から大粒の涙が零れた。
「兵頭……」
 掛ける言葉なんて思いつかない。十座がこの数ヶ月間、そんな苦しみを抱いて生きていたなんて思ってもみなかった。万里は十座がずっと傍に居た自分ではなく見知らぬ誰かを恋人に選んだのが気にくわなくて、でもそれを失恋と受け取るにはプライドが許さず、ただただ胸の内で十座を軽蔑することで心を保ってきた。厳しい言葉もたくさん言った。そのたびに、十座はどれだけ傷ついていたのだろう。
「俺は最低な女だ。やっぱり俺には、誰かを愛するなんてできやしない。あいつは俺をきれいだって、憧れだって言ってくれた。でも俺はそれに応えられなかった。本当はきれいなんかじゃなかったから。この手は結局、殴るしか能がないんだ。俺は嘘つきだ。役立たずだ。死を前にした恐怖と戦ってるあいつの手を、握ってやることもできないで……俺は、おれは」
 十座はついに、声を上げて泣き出した。万里は絶句したまま、彼女の頭を抱き寄せた。くぐもった泣き声を聞きながら、万里は十座に与える言葉を探す。だけどそんなものはどこにもなかった。何を言ってもあの男の二番煎じ。十座が綺麗だなんてとっくの昔に知っている。優しいことも、可愛らしいことも、その体つきが魅力的なことだって実は知っている。彼女の魅力を見いだしたのは万里が最初のはずなのに。どこの馬の骨とも知れない男に、肝心の心を壊されてしまった。

(なんてむごいことをしやがるんだ)
 その男の思いは真摯なものだっただろう。だからこそ、真面目な十座は同じ温度の想いを向けるべきだと思ってしまった。しかしそれができなくて、十座は自分を責めた。
(コイツはなにも悪くないのに)
 大声で泣きじゃくる十座の背を撫でてやりながら、万里は十座の体を深く抱き込んだ。見た目よりずっとか細くて、女の柔らかさをした体が無残に震えている。相手を愛せなかったのは悪じゃない。そう伝えたところで、今の十座には届かないだろう。彼女の恋心は、芽吹く前に水を与えられすぎて朽ちてしまった。
(恨むぜ、誰かさん。こいつをこんなにしたのに、殴りにも行けねぇなんて)

 万里は十座の髪にキスをして、耳に灼き付きそうな泣き声をひたすら受け止め続けた。

END

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