無辜の毒

ミックス公演「ScarletMirror」をベースにした小話。その頃に書いた過去作です。
千景が感じた、十座の持つ「毒」とは。CP要素はありません。

 

 なるほど、あれは毒だ。
 千景は俄かに理解して、ピリピリと肌が張り詰める感覚にある種の恐怖に似た感覚を覚えた。

 千景は常から、己を嘘で塗り固めた人間だと自負していた。事実、「卯木千景」なんて人物は存在しないし、「エイプリル」だって本当の自分ではない。――もはや、本当という定義がどこにあるのかすら怪しくなってしまった。生まれた国はどこか、親は居たか、兄弟はどうだったか。辿ろうと思えば辿れなくもない記憶だが、そんなことはもはやどうでもよかった。だからそう、「忘れた」と言ってしまっていいのだろう。
 孤独な者には格別厳しくできているこの世の中を生き抜くために、千景は必要なだけの顔を作った。すぐに捨ててしまった顔、まだ利用価値がある顔、捨てるに捨てられない顔……。いろんな顔を器用に使い分ける生き方は「芝居」に類する。けれどそれは自己表現などではなく、もっと泥臭い、生きるための手段に過ぎなかった。
 なまじ「守りたいもの」ができてしまったのがいけなかったのだろうか。《あの場所》で過ごした記憶、《彼》に受け入れられた喜び……。《家族》を得たことで、ようやくこの世に市民権を得た気がした。千景の胸に風穴を開けていた疎外感を、かりそめの家族が少しだけ和らげてくれたのだ。それは川面から鼻だけ突き出して呼吸しているような、付け焼き刃とも言い難いほどの気休めだった。それでも千景――エイプリルにはじゅうぶんすぎるほどの幸福であったのだ。

「幸せの終わりは常に意識していた」
 ジュライの一件を片付けた後、ずぶ濡れの密をそのまま寮に連れ帰るわけにもいかず、とりあえずアジトに逆戻りした。せっかく手間を掛けてやっているのに、密はというと呑気に船を漕ぎ始めている。千景はため息をついて、その無防備な頭を乱暴に拭いてやっていた。
「――それは、にせもの、だから?」
 千景のつぶやきに、密はあえて千景が思い浮かべている言葉を選んでそう言った。にせもの、かりそめ、ごっこ遊び。《あの場所》に居た誰もが自覚しながらも、目を背けてきた空寒い言葉だ。
「ああ。あそこはただの掃きだめで、俺たちは寄せ集めの傀儡にすぎなかった」
 夢を見ていたのだ。手に入らなかった、あるいは奪われた「家族」という集団に幻想を抱き、身を寄せ合った。独りで生きることをひたすらに難しくする世の中に反旗を翻し、かばい合いながら生きてきた。そうするしか術がなかったから。
「でも、心はつながっていた」
 密の呟きに、千景は小さく舌打ちをした。
 許されてしまった、あの関係が。保証されてしまった、彼らとのつながりが。
「心のつながりが……根っこのつながりがあることを家族と呼んでもいいなら、オレたちは」
「口を動かすなら手を動かせ。そもそも、何で俺がお前の頭を拭いてやらなきゃならないんだ」
 千景はタオルごしにバシンと密の後頭部を叩いて、拭く手を止めてしまった。
「痛い……」
 不満げな密の声に、千景はフンと鼻を鳴らしてソファに深く腰掛けた。ここにこうやって座るときは、数分間の仮眠を取るとき以外にはない。なのにこんな無防備な格好をできているのは、認めたくはないが密が居るからだろう。
「千景は、十座たちが嫌い?」
 彼らはいわば、自分たちとは正反対の人間だ。
 彼らには親があり、兄弟がある。仲の良い親戚もあり、なにより血のつながりがある。それは彼らに限ったことではないが、あまりに定型の、あまりに理想の姿だから特にそう感じるのかもしれない。家族は誰一人欠けることなく、兄弟は思い合って同じ道を歩んでいる。絵空事でさえ描かないだろうと思うほどに。
 だからこそ、うらめしいのかもしれない。
「――嫌いだと言えばお前は満足するのか」
「ううん。その逆」
 かつてのエイプリルなら嫌悪していたかもしれない。何のうしろめたさもなく、手放しに愛し合う兄弟のことを。
「オレは復讐も妬みも嫌い。その先に何もないから。それが分かってて、千景にそんなことさせるつもりはない」
「どの口が。俺を一人にしたのはお前たちのくせに」
 その小さな非難を、密は黙して受け入れた。互いを思えばこそ、愛すればこそ、すれ違ってしまったのだ。一時とはいえ、全てを忘れた自分はまだいい。密はそう考えていた。エイプリルは大切な人の死と裏切りを一度に背負わされた。その傷みを己が背負えるかと聞かれたたら、おそらく無理だと答えるだろう
「黙るなよ。今更責めるつもりもない」
「……オレは、十座と九門が好き。二人を見てると、何も変わらないって思うから」
 だから聞いてみた、と密は続ける。
「本物を持っている二人にとって、家族って何って。血のつながりって言われたらそれで終わりでもよかった。でも、それだけじゃなかった」
 血のつながりを持つ彼らが、家族に必要な条件はそれだけではないと言った。彼らは血のつながりに甘んじているのでなく、心のつながりこそが家族だと考えていたのだ。
「反対に言えば、血がつながってるだけじゃ家族になれないってことでしょ」
「……」
 千景は沈黙する。彼にとっても、兄弟の答えは意外なものだった。彼らは同じ家に住み、同じ両親を持ち、同じ血潮を体に流して生きている。それが正義だと思っていた。ただ想い縋るだけの家族ごっこはまやかしであると、戒めてきた過去が覆されてしまった。
「きっとそれが普通なんだ。オレたちは外から見ることしかできなかったから、知らなかっただけで」
「気づいていたさ、それくらい」
 千景はMANKAIカンパニーを訪れて、春組・卯木千景として受け入れられたことで最初の赦しを得ていた。さまざまな家族の形を持ち、それぞれの想いを持ったバラバラの人間が、仲間というには親密な縁でつながる感覚。オーガストやディセンバーと過ごしたあの日を思わせる、あたたかな日々。帰るべき場所があり、守りたい人が居る。それだけで良かったのだ。
「……最初の質問に答えてやる。好きだよ、あの兄弟のこと。誰がなんと言おうと、彼らこそ本当の家族なんだろう。だから尊いし、守りたいとも思う。俺が不可解なのは……」
 千景は話をそこで切り上げて、船を漕ぎ始めた密の肩を叩いた。
「寝るな。帰るんだろ、一緒に」
「……うん。いってきますを言ったから、ただいまを言いに帰らなきゃ」
「どういう理屈だ、それは」
 千景はこれみよがしにため息をついて、アジトを後にする。当分の間は訪れることがないようにと願いながら。

 夜半過ぎだというのに、103号室の窓からはぼんやりと青白い光が漏れていた。週末の夜はいつもこうだ。千景はそれについて是も非もなく、無感動に扉をノックして中に入った。
「遅かったですね、先輩。おかえりなさい」
 案の定、同室の男は眠っていなかった。青白く発光するモニターにかじりついて、飽きもせずゲームに興じている。そのだらけきった姿は、職場の女性陣に見せてやりたいほどに自堕落だった。
「ああ、ただいま」
 茅ヶ崎至という男は、同じ部屋に置いていてもさほどストレスを感じない人間だった。長い間外界を拒絶して生きてきたせいか、人より他人への興味が薄い。――否、不必要に踏み込むべきでない領域を弁えているというべきか。
 心配という言葉を振りかざして他人の領域を踏み荒らす阿呆でなければ、人と関わることに少なからず責任が生じることを理解しているものだ。至もそれを自覚していて、己が責任を負える範囲を見極めた上で踏み込むべきか否かを判断することができる。だから千景が深夜に帰宅しても大抵は「おかえり」の一言で済ませてしまうのだ。
 会話はそれだけ。二人の関係が悪いわけではなく、これがベストな距離感だった。彼らは心身共に他人との近すぎる距離を好まない性分で、この部屋をシェアするときに決めた約束事の一つに、互いの行動に不用意な口出しや邪魔はしないことを確認し合っていた。それなりの時間を過ごした今でも、その約束事は守られている。
 千景は至に一瞥もくれず、上着をくつろげてベッドへ上がった。枕元のライトを灯し、数日ぶりに台本を開く。内容は既に記憶済みだったが、稽古はずいぶんと休んでしまった。明日から巻き返さなければならないだろう。カチカチと至がコントローラーのボタンを連打する音を聞きながら、頭から文字を追いかけ始めた。
 ふと、一つのシーンに目が留まる。負傷して帰還した手下のモラン大佐に、モリアーティが苦言を呈する場面だ。大佐は教授に終始服従しており、どこか依存しているきらいがあった。コナン・ドイルが描いた大佐は犯罪界のナポレオンに隷属した退役軍人であり、ホームズの言葉を借りるなら「正義の大樹から剪定を怠った末に生まれてしまった奇形の枝」であった。そんな彼が悪の権化であるモリアーティに付き従うのは自然の摂理とも思える。――大佐を演じる十座が、彼の悪性をどこまで理解しているかは定かでないが。
「そういえば先輩。ミックス公演の稽古は進んでます?」
 不意に声を掛けられる。千景が視線を向けると、至はディスプレイを凝視したままだった。
「……ちょっとやることが重なってね。でも、これから巻き返すつもりだ」
「そうですか。じゃあ明日の夕方、バルコニーに行ってみてください」
「夕方のバルコニー?」
 ブルーライトの影になった黒い背中に聞き返すと、至はあっさりとコントローラーを手放して振り向いてきた。途中で放り出されたゲーム画面では、操作キャラが敵の集中攻撃を受けている。
「最近、十座がそこで自主練をしてるんです」
「俺も自主練に参加して来いって?」
「そこまでは言わないですけど、得るものはあると思いますよ」
 千景は少しだけ目を見張った。あの至がゲームを途中で放り出してまで言うほどに、十座の自主練は注目すべきものなのだろうか。
「……そう。考えておく」
 千景はそう答えて、台本を閉じて目を閉じた。
 やはり今日は疲れた。千景は不快ではない疲労感に引っ張られるように、すとんと眠りに落ちた。

 翌日の暮れ時。果たして十座の姿はバルコニーにあった。夕染めの陽光に照らされた長身は、寮の一角であろうと画になる佇まいだ。
「いつもここで自主練を?」
 広い背中に声を掛けると、十座はやおら振り向いて「っす」と短く首肯した。
「今日は早かったんすね、おかえりなさい」
「ああ、ただいま。この時間、十座が自主練してるって聞いたから、気になってね」
 テーブルに広げられた台本には、みっちりと書き込みがされている。傍にはそれ以上に何かが書き込まれた大学ノートと、付箋だらけの原作本。それは十座がモラン大佐を理解しようと努力している証だった。
「しっかり読み込んでるみたいだな。えらいよ」
 千景は重たいハードカバーの訳本を取り上げて、付箋が付いたページをぱらりとめくる。そこは三年越しにベーカー街へと舞い戻った名探偵シャーロック・ホームズが、親友のワトソンと事件の解決を歓び合いながら、セバスチャン・モラン大佐に関する情報を共有する場面だった。原典の中で彼が登場する唯一の作品であり、彼のキャラクターを最も深く解説している場面なだけに、十座がそこに注目するのは自然のことだろうと思われた。
「何度読んでもよく分かんねぇ所はあるけど……前よりは掴めたモンがあると思う」
 少し前は翻訳文学の独特な言い回しに苦戦した様子の十座だったが、しっかり前進しているようだ。
「へぇ、たとえば?」
 千景は雑談がてら問い掛けた。ミックス公演が始まってから、当然ながら十座と芝居について語る機会が増えた。彼は与えられた役柄を自分なりに解釈しようと、ひたむきに努力を重ねるタイプの役者であった。個人差はあるものの、それぞれ独自の感性を兼ね揃えたMANKAIカンパニーの役者陣のなかでも、十座のそれは開花にまで時間が掛かるように思えた。
「原典では、モラン大佐がモリアーティのことをどう思ってたか、大佐自身の言葉で書かれた場面はないんスよ」
「確かに。優秀な右腕だったとか、盟友だったとか、伝え聞く書き方しかされていないね。それで、十座はどう考えたんだ?」
 十座が悩んでいるのはそこだった。しかし原典には言及がないにしろ、脚本家の解釈は明白である。綴はセバスチャン・モランという人物像をモリアーティの忠実なるしもべとして書き起こしていた。パロディ作品ではあるが、原作ファンにも配慮した脚本であると評価できる。だから役者も、脚本家の解釈に従ってキャラクターを作ればいいだろうに。千景は十座のたどたどしい作品解釈を疑問に思いながら、十座の返答を待つ。
「モラン大佐は多分、モリアーティに光みてぇなモンを見ていたんだと思う」
「……光?」
 犯罪界のナポレオンをして『光』とはどういう解釈だろうか。千景が思うジェームズ・モリアーティは、闇の深層でほくそ笑む悪の権化だ。自分の悪性を理解し、愛情をもって悪を成す。正義の対たる存在であることに、使命のようなものを感じているようにすら思える。彼にとって犯罪は数式の証明に等しいのだ。そんな彼を陰と陽で表現するなら、明らかに陰の者であるはずだ。
「モラン大佐は戦争で武勲を立てた立派な軍人だったらしい。そんな人がどうして殺人鬼に成り下がったのか俺には分からねぇ。戦争であっても人を傷つけること……殺すことで気持ちがやられていったのかもしれないが」
 誰かを殴らなきゃならねぇのは、つらいから。十座は握りしめた拳を見つめながら呟く。それは命のやりとりを知らない子どもの感覚であると同時に、「当然の善性」であった。
「でも、戦争はなくならない。人は欲望のために人を傷つけ、時に殺す。それは当然悪ではあるが、モリアーティはそういった人の悪性を否定しない。大佐はモリアーティのそんなところに、救われたのかもしれねぇ」
 モリアーティが悪を愛してくれるから、悪として生きることしかできないモラン大佐が救われる。そういう意味で、モリアーティは光であったのだ。
「他人にとっていいことをしていたり、大勢に賞賛される人間ばかりが光だとは限らねぇ。誰かにとって生きる糧だったり、道しるべになるようなヤツが『光』なんだと思う」
「誰かにとって、生きる糧……」
 その瞬間、千景の脳裏に懐かしい笑顔が去来した。自分たちが生きる世界は決して善ではなかったけれど、エイプリルやディセンバーにとってのオーガストは、確かに『光』だったのだ。
「だから大佐はモリアーティを守る。世界中が彼を否定しても、モラン大佐だけはモリアーティを信頼している。……でも」
 不意に、十座の表情が曇る。
「モリアーティにとってモラン大佐は、ひとつの駒にすぎない。モリアーティにとっての特別はシャーロックホームズで、モラン大佐じゃないから」
 どれだけ尊敬しても、愛しても、受け入れられることはない。きっとホームズを殺しても、その事実は変わらないのだろう。
「それは、くやしいね」
 千景は十座の解釈に引き込まれつつある自分に気付かぬまま、十座に同情した。唯一と認めた人間が、自分以外の誰かに心を委ねる様を見るのは気持ちのいいものではない。かつてディセンバーを殺したいほど恨んだ過去を思い返し、千景は密かに心の古傷を撫でた。
「そんなヤツのことばっか気にしてないで、俺のことを見て……なんて、女々しいことでも考えてしまいそうだ」
 見当違いの恨み言を連ねるジュライの姿が千景の脳裏に浮かぶ。光に愛されなかった憐れな駒が瞳に宿していたのは、妬みと憎しみと、悲しみばかりであった。

『……いっそのこと混ざり合えたのなら、どれほどよかったのでしょう。――せんせい』

 十座の口から漏れたセリフに、千景の胸がどくりと大きく鼓動した。
 目の前に、モラン大佐が居る。そんな錯覚が千景を襲った。ここは板の上ではないし、目の前に居るのは衣装もメイクもしていないただの兵頭十座であるはずだ。けれどその一言で、寮のバルコニーはモリアーティの私室になり、十座はセバスチャン・モランになり、そして千景は自分が「ジェームズ・モリアーティである」と確信させられてしまった。
 モリアーティを真っ直ぐ見つめるモラン大佐の瞳には、確かにホームズに対する妬みと憎しみがある。けれどそれ以上に、モリアーティに対する哀願のような切ない色が濃く現れていた。
「……すんません、上手く言えなくて」
 にわかに十座が戻ってくる。瞬間、千景は自分を取り戻してはっと息を詰まらせた。
「いや、そんなことはないよ。……すごく、いい解釈だ。綴の脚本もよく読み込んでいる。俺も負けていられないな」
「そうスか? あざす」
 ほっとしたように十座が微笑む。千景は未だざわつく胸を悟られぬように、同じ笑顔をつくった。稽古を重ねれば重ねるほど、十座の中でモラン大佐が仕上がっていくのは感じていた。読み合わせのときの彼と本番の彼を見比べるとその差は歴然で、兵頭十座という役者の特色はそういった愚直な役の作り込みあると千景は理解していた。
(それだけじゃない。これは、この感覚は……)
 ぞくり、と千景の背筋に寒気とも熱ともいえない不思議な感覚が走る。

「十座くん、ごはんだよ~……あれ、千景さんも居たんですね。二人とも、降りてきてください」
 突然、ひょっこりと姿を現した監督の声に、千景の緊張はやや希釈される。彼は無意識のうちにホッと息を吐いた。
「ああ、ありがとう。すぐに行くから、先に降りてて。十座も」
「っす」
 連れ立ってバルコニーを後にする監督と十座の背中を見送って、千景は傍の壁に身を預けた。夕日はとっくに西の空へと引っ込んでいて、薄暗い空にいくつかの星が瞬きはじめている。
 千景の目の前に現れた「モラン大佐」は、千景の意識をも取り込んだ。千景はあの瞬間、間違いなく「モリアーティ」になっていた。十座と同じ板の上に立てば、その錯覚はもっと強いものになるのだろうか。あの瞳を客の眼前で浴びたとしたら、自分の芝居はどのように変化するのだろうか。それはえも言われぬ期待となって千景の胸に熱を灯した。
 十座の瞳には相手が抱える思いや願いを感じ取る力がある。千景はそれを純粋に恐ろしいと感じていた。あの瞳の前ではどんな嘘もペテンも見透かされてしまう。そして十座はそれを責めない。モラン大佐にとってモリアーティが必要悪であったように、千景の嘘も必要だったんだろうと認めてしまう。赦されてしまう。
(なるほど、あれは毒だ)
 自分の世界を大切にしている至が十座を気に掛ける理由も、己を理性的にコントロールできるはずの万里が本能のままに勝負を仕掛ける心理も、きっと十座という存在に毒されているからなのだ。十座自身にその自覚はなく、ただひたむきに目指す道を歩んでいる。
 その姿は「光」であると同時に、「毒」であると千景は感じた。ある者は憧憬し、ある者は競争心をかき立てられる。人を狂わす、無辜の毒だ。
(……今のところは深入りは禁物、かな)
 すべての過去を手放して、未来だけ見つめて歩けるようになるまで。役者・卯木千景の人生を本物にできるまで。あの安らかな毒を傍観していよう。

 千景は濃さを増した夜空に踵を返し、食卓へと足を向けた。

END

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