知らない間に彼女ができてた摂津の恐怖体験 - 1/5

ストーカー被害に遭うかわいそうな万里くんを助けてくれるかっこいい十座♀ちゃんの摂兵♀。
摂兵♀です(繰り返し確認)。モブ女がジャンジャカ出ます。

 

 

「おい、摂津。いつまでアラーム鳴らしてんだ」

 けたたましく鳴り続けるスマホを放置して布団にくるまっていたら、ボスンと容赦なく殴られた。摂津万里は俄かに覚醒し、昨夜スマホの電源を切って寝るのを忘れていたことに舌打ちして画面を操作する。
「何回も鳴ってたぞ。設定どうなってんだ」
「あ~、わり。電源切って寝んの忘れてた」
「切ったら目覚ましの意味ねぇだろ」
 同室の兵頭十座がため息交じりに小言を漏らすのを聞き流し、万里は慣れた手つきで「着信拒否」の設定をした。
 そう、朝っぱらから鳴り響いていたメロディーは目覚ましアラームなどではなく、着信音だったのだ。あるときは携帯電話や固定電話、あるときは050の捨て番号、またある時は公衆電話……ここ最近、万里のスマホの着信履歴はあの手この手で掛かってくる不審電話で埋まっていた。
「つか、まだ6時前じゃん……吐きそう」
 万里は仰向けに寝転がったまま目を覆った。夏の夜は既に明けているが、陽光はまだ淡い。蝉も鳴かない時間に不審電話で起こされるほど最悪な朝があるだろうか。
「やけに早いな。用事があるのか?」
 朝稽古がない日に万里が早起きするなんて珍しい。十座はその小さな違和感に眉を顰めた。予定があるなら、昨晩のうちに一言あったはずだ。
「別に何も。今日2限だし。悪ィな、起こしちまって。時間設定間違えてたみてぇだ」
 適当に理由をつけて謝りながら、万里は背中に嫌な汗が伝うのを感じた。不審電話がだんだんエスカレートしてきているのだ。
「そろそろ起きる時間だから構わねぇが……摂津? 顔色が悪いぞ」
 寝起きの彼は普段から低血圧ぎみのようだが、それにしたって顔が青すぎる。十座はベッド柵を乗り越えて、万里の額に手を伸ばした。
「ちょっ、何すんだよ」
「熱でもあるんじゃねぇかと思って。……ねぇな」
 不意に万里の額を十座の手のひらが覆う。その手は彼に熱がないことを確認すると、そのまま頭をぐしゃぐしゃと撫でた。弟のように扱われて万里の頬にカッと赤みが差す。慌てて十座の手を振り払うと、彼女は文句を言うでもなく、緩く微笑んでベッドを降りた。
「気分悪いなら無理すんなよ」
 十座はそう言って、顔を洗いに部屋を出て行った。
「くっそ、アイツほんとヤだ……」
 万里は部屋のドアが閉まるのを見送ってから、舌打ち混じりに呟いた。顔が熱いが、それは熱ではなく十座が髪を掻き撫でていったせいだ。
 万里はぐしゃぐしゃになった髪を撫でつけながら、緩む頬を必死に引き締めた。頭を撫でられたことなんて記憶の端にもないほど昔のことだし、それが密かに想いを寄せている相手の手だというだけで、なんだか胸のあたりがむず痒くなる。
 先ほどまでの不快感が多幸感に塗り替えられていく。万里はようやく落ち着いた頭で、改めてスマホを確認した。着信は午前5時40分から数回に分けて掛かってきている。
「それにしてもマズいなこれ……時間関係なしとか無理すぎだろ」
 不審な電話が万里の着信履歴を侵し始めたのは数週間前のことだ。学園祭のファッションショーでモデルを担当してから、服飾や絵画などのモデルに駆り出されることが増えた。
 いい経験になるからと予定が合う依頼はすべて受けていたので、学内でもそれなりに顔が広まった。ちょうどそのころ、1本の電話が掛かってきた。番号は知らないものだったが、連絡先は広く知らせていたので特に警戒することなく電話を受けた。
 それが全ての始まりだったのだ。

『あ、やっと出た。お疲れさま。今、大丈夫?』
「は? 誰?」
『え~、ひどいな。分からないの?』
 相手はやけに馴れ馴れしい女だった。第一、向こうから掛けておいて名乗りもしないで、誰だか分かるはずもない。そんなノリが通じる女は実の母親か姉、あとは監督と同室の相方くらいだ。だが、その誰もが媚びたようなメス声を出すような女ではない。
「知らねぇし。間違い電話じゃねぇっすか」
 面倒な間違い電話を取ってしまった思って切ろうとしたら、電話口で女がころころと笑った。
『万里くんたら、面白い。でもちょっと傷つくなぁ。彼女の声くらい聞き分けてよね』
「……は?」
 瞬間、ぞっと悪寒が走った。ちょっと何を言っているか分からないですね、としか言いようがない。それもそのはず、万里には現在、彼女など居ないのだから。
『万里くん、最近モデルばっかしてて構ってくれなくて寂しいな。でも私、カッコイイ彼氏を自慢できて嬉しいんだ! でね、お疲れ会したいから終わったら学食に来てね。約束だよ。ずっと待ってるからね』
 ハイテンションでまくしたてられて、返事をする間もなく通話が切れた。後に残るのは気味の悪さだ。万里はもちろん学食には行かなかった。
 それから毎日のように、知らない番号から電話がかかってくるようになった。電話帳に登録していない番号には極力応じないようにしたが、完全に無視するわけにもいかないので「彼女」からの電話を5回に1回は取ってしまう。そのたびに彼女は、ねっとりと溶けた声を万里の耳になすりつけてくるのだった。

『会えなくて寂しい。ちょっと怒ってるんだよ、私。今度映画に連れてってくれたらゆるしてあげる』
『今日は家に誰も居ないの。やだ、えっちなこと考えたでしょ!』
『この間ね、同じゼミの男の子に告白されちゃった。焦った? ふふ。私は万里くん一筋だよ』
『お弁当作ったの。ロッカーに入れておいたから食べてね』

 その声は甘く優しい。けれど顔も知らない女から睦言じみた言葉を掛けられたところで、こみ上げてくるのは吐き気である。やけに上から目線なのにも癪に障る。大学で使っている個人ロッカーの前に弁当が置いてあった時はゾッと全身が震えた。
 しばらくするとLimeにも「彼女」を名乗る女から何通も何通もメッセージが届き、万里の精神を徐々に削っていった。
 こういうタイプは拒絶だろうが怒りだろうが、反応すると調子に乗る。こちらの行動を曲解されても困るので無言の拒否を続けてきたが、迷惑行為はとどまるどころか、ついに同室の十座にまで迷惑がかかりそうになってきた。そろそろ相手の特定くらいはした方がいいかもしれない。
 できれば一人で片付けたいが、相手の素性すら分かっていないのだ。単独で動くのは得策ではないだろう。ストーカー女が万里に目を付けたきっかけとなったのは、おそらく大学の行事だ。ならば犯人は大学の関係者だと考えるのが自然だが、特定にはまだまだ情報が足りない。気乗りはしないがまずは一成にでも相談してみようと、万里は重い腰を上げた。

 2限の講義が終わり、学生たちが学食へとなだれ込む時間。
 万里は人の波を遡って一成が使っているアトリエを目指していた。一成には「昼休憩に少し時間をくれ」とLimeで頼んでおいたのだ。お茶とコンビニ弁当を手土産に、日本画専攻の学生が使っている部屋の扉をノックする。返事はすぐに帰ってきて、中から見知った顔が現れた。
「おつピコ~! 入って入って!」
「ああ、悪ィな。休憩時間なのに」
 一成に招かれるまま万里はアトリエに入る。一瞬、顔料のにおいがツンと鼻をついたがすぐに慣れた。
 事前に聞いていた通り、室内には一成の他に誰も居なかった。10畳ほどのアトリエには、描きかけの絵が何点か広げられている。床に木を組んで広げられているもの、イーゼルに立て掛けてあるもの、机の上に置いてあるものなど描き方はさまざまのようだ。風景、動物、人物画とモチーフもそれぞれで、見ていてなかなかに楽しい。
 万里は床に無造作に置かれた顔料の皿を蹴ってしまわないように気を付けながら、奥の机まで進んで行った。部屋の一番奥、壁に片面を付けて置いてある長机は食事や休憩に使うものらしく、その周囲に画材はない。散らかっててゴメンねと謝る一成に、上がり込んでるのはこっちなんだから気にするなと返事をして、弁当を渡した。
「昼なんて気にしなくてよかったのに。セッツァーって意外に真面目だよねん」
「意外は余計だろ」
 軽口を叩き合いながら、背もたれのない丸椅子に腰を落ち着け「で、本題なんだけど」と話を切り出す。
「ここ数週間、変な電話とかLimeが来てて」
「うん、詳しく聞かせてよ」
 万里は顔も知らない「彼女」について順を追って話し始めた。一成はいつものおちゃらけた調子を仕舞って、万里の話を真剣に聞いている。仲間がストーカー被害に遭っていると知れば、何とかしてやりたいと思うのが常である。
「会おうとか、デートに連れてってとか言うくせに特定の場所で待ってるって言ったのは最初の一回だけだった。それ以降は『昨日は手をつないで学内を歩けて楽しかった』だの、『男友達にあいさつしただけなのに、いきなりキスしてきてびっくりした』だの、してもいねぇ事をまるで現実みたいに言って来んの。ただの妄想なら流しちまえばいいんだけど、その日俺が居た場所とヤツの妄想が被っててマジでキモくて」
「うーん、なんていうかその、困るね。それは」
 そう、今のところ実害は「困る」に留まっている。着信履歴が埋まるのは迷惑だが、大学生活や芝居に響くレベルではなかった。相手のLimeアカウントをブロックして新規のコンタクトを制限すれば済む話だし、迷惑電話も今のところ迷惑なだけだった。
「ちなみに昔のオンナが暴走してるってのもないからな。相手は選んでたし」
「じゃあまるで思い当たる節がないわけだ。怖いね」
 一成は我が事のように眉を顰める。要領がよく肝も据わっている万里は、困り事を隠すのが上手かった。いくら同じ屋根の下に暮らしているとはいえ、彼の異変に気付くのは至難の業なのだ。こうして相談してくれなかったら、もうしばらく気付かないままだっただろう。
「ほっときゃ諦めるだろうと思ってたけど、毎日毎日飽きもせずに着歴残してくるし、今朝は6時前に電話かけてきやがった。それで兵頭も起こしちまってさ……。アイツを巻き込むのはさすがにねぇなと思って」
 時間を問わず電話を掛けてくるようなら、対策を講じないとまずい。劇団の仲間たちにまで迷惑を掛けたくなくて、一成の知恵と人脈を借りに来たのだ。
「なるほどね。じゃあまず、相手の特徴を分かる範囲でいいから教えてくれる?」
「ああ、なんとなく整理してきたんだけど」
 相手の情報は一方的な電話やLimeのメッセージでそれなりに掴んでいる。そこから犯人像をプロファイリングすると、次のような女の像が浮かび上がってきた。
「年齢は俺と同じくらい。けど、ウチの学生じゃねぇと思う。学内には頻繁に潜り込んでるみたいだけどな。声はテンション高めの……作ったっぽいやつ。サバサバ系を自称しながら男にガッツリ媚びてくるタイプの女っつーか。文化祭とかでテンション上がって一発ヤッちまって、後々めっちゃ拗れるような、めんどくせー女」
 万里は豆乳のパックにストローを差し込みながら、思いつく限りのイメージを言葉に乗せていく。じわじわと肌で感じるような、生理的に不快感のある女というイメージなのだが、伝わっているだろうか。こういうのはきっと、綴の方がわかりやすい表現を見つけてくるのだろう。
「伝わる伝わる。だけどセッツァー、喩えが具体的すぎ……」
「いや、高校ン時つるんでたダチの話だかんな? 俺はそんなヘマしねぇよ」
 劇団に入る前、とにかく暇を潰せればと色んなことをしたし、色んなバカともつるんできたが、後腐れするようなバカ話は伝え聞く程度だった。それが経験に基づくものだと思われるのは心外だ。万里がストローをかじりながら睨むと、一成は悪びれる様子もなくへらりと笑った。
「分かってるってばー。恋愛には誠実だもんね、セッツァーは」
「はぁ? 意味わかんね」
 話が逸れたところで、「他に特徴は?」と一成の方から話を戻す。
「背は頭が俺の胸のあたりに来るくらいらしいぜ。妄想の世界で図書館デートに行ったとき、高いところにある本を俺が取ってくれたんだと」
 もちろん図書館デートなんて身に覚えのないことだ。うっとりと語る女の声を思い返すだけで身震がした。
「そっか。他には? もっと似顔絵でも描けそうな情報があるといいんだけど」
「似顔絵って言ってもなぁ。顔は見たことねぇし……。あ、そういえば」
  万里はスマホを取り出してアルバムを開き、1枚の画像を表示させた。何かに使えるかと、女のLimeのホーム画面をスクリーンショットしておいたのだ。
「これ。顔は見えねぇけど、服はこーいう趣味なんかな」
 Limeのトップ画像には彼女の自撮りだろうか、顔だけをスタンプで隠した全身の写真が表示されていた。人相は分からないが、女の趣味を推察するには十分な資料だ。
「あーね。何となく分かってきたかも」
 一成はスケッチブックを取り出して、ザカザカと何かを描き始めた。
「年齢は10代後半から20代前半にかけて。体形は中肉中背。髪は黒くて、背中あたりまでのストレート。服装は甘ロリ系。輪郭は丸くて、メイクは服装に合わせて甘めかな」
 万里の情報を整理しつつ、写真のビジュアルと絡めて浮かんだイメージを筆に乗せる。一成は言葉で表現するよりもこうやって絵にする方が得意なのだ。
「じゃん。こんな感じかな?」
 披露されたラフ画に、万里は思わず「あ〜、居る居る」と感嘆の声を漏らした。高校生までは男勝りを気取って男子とばかりつるみ、大学で華々しく姫デビューするタイプの女だ。絵の上手い一成の手にかかるとそこそこ魅力的に見えるが、これはイメージに過ぎない。
「感じは掴めたけど、これからどーすりゃいいんだよ」
 まさかこのイメージ図を持って警察に駆け込んだり、掲示板に張り出したりできるでもなし。ロリータドレスを着ている学生はさほど居ないが、皆無とも言えないのでこれを基に特定するのも難しそうだ。イメージ図は助かったが、一成の行動の理由がイマイチ分からなかった。
「これは現状整理のためのメモだよん。オレの作戦はここから」
 一成は絵を指でトントンと叩きながら、作戦とやらを話し始めた。
「セッツァーにこの子と真逆のタイプの彼女がいるって大学中にアピってくの。そしたら犯人をあぶり出せるかもしれないし、セッツァーの好みを知って諦めるかもしれないじゃない? カズナリミヨシAIモードっしょ!」
 鼻息荒く作戦を語る一成に、万里は軽い頭痛を覚えた。策としては悪くないが、実行には一つだけ大きな問題がある。
「真逆ってどんな女だよ。言いふらすにしても、実物が居ないとリアリティねぇだろ」
「だからー、大人っぽくて、背が高くて、髪は短めで、スレンダーだけどセクシーなシルエットで、着てる服はメンズ寄りで、ビターなワイルド系美女!」
「そんな女そうそう身近にいるわけ……」
 居るじゃん。そのイメージをそっくりそのまま落とし込んだような女が。
「待て待て待て、さっき俺言ったよな? 兵頭を巻き込むのはねぇって」
「オレまだヒョードルだって言ってないけど?」
「はぁっ!?」
 てめぇ、図ったな。万里がスッと細くなる。その眼光はなかなかの迫力だったが、一成を怯ませることはできなかった。
「コワーイ!  怒んないでよ、ヒョードルで合ってるからさ」
 一成はカラカラと笑って尻ポケットからスマホを取り出し、親指を素早く動かしてどこかへ連絡を始めた。
「巻き込むとか迷惑とか、あんまり考えない方がいいよ。セッツァーは何でもできて頼れるリーダーだけどさ、そういうのって、こっちからすれば信頼されてないみたいで割と悔しいからさ。オレを頼ったんならなおさら、ヒョードルには関係ないみたいな態度はヒドいっしょ」
「だけど、兵頭は……」
 一成の言い分も分かる。万里も助けを拒むつもりはなかったが、こういった痴情の縺れに十座を巻き込むのはやはり気が引けた。
「好きな女の子を危ない目に遭わせたくない気持ちは分かるよ。でもね、ヒョードル相手にはその気遣いが裏目にでちゃうと思うな。オレも人のこと言えた立場じゃないけどさ、自分の思ってることや伝えたい気持ちを後回しにすればするほど、相手にとって自分が分からない存在になっていくんだ。それって怖くない?」
 何を考えているのか分からない。お前には自分がない。一本筋が通った人間にそう言われるのは、本当に恐ろしい。もっと良くないのは、十座が万里の頑なな態度を受け入れてしまうことだ。十座は少しばかり後ろ向きなところがあるから、万里にとって自分は頼りがいのない存在だ、信頼に足りない存在なのだと納得してしまうかもしれない。
「理解されないのはヤだけど、あっちにも選ぶ権利ってモンが……ってオイ! 誰が誰を好きだって!?」
 話に流されかけて、万里はすんでのところで踏みとどまった。煮込みすぎてクタクタになった恋心は、まだ誰にも明かしたことがないはずなのに。
「うわ、まだバレてないと思ってんの? テンテンやサクサクも知ってるのに?」
「嘘だろマジで?」
 勘の鋭い奴らならまだしも、鈍感な天馬や咲也にも知られていたなんて。嘘だと言ってくれ。万里は思わず頭を抱えた。
「惚れた女の子と同じ屋根の下、それも同じ部屋で寝起きしてるセッツァーの鋼の忍耐力にフルーチェさんも感心して見守ってくれてるよ。くもぴは何かあれば容赦はしないって右腕を押さえながら言ってたけど、認めてないわけじゃないと思うよん!」
「ヤクザの生暖かい目とか無理なんだけど……っていうか何かあった場合、闇の力で葬られる感じなん?」
「それからおみみは『いつか炊くことになるかもしれないから』って小豆を常備してるし」
「やめろ! 赤飯を炊くな!!」
「タクスと監督ちゃんは『同じ劇団の人と付き合うのは難しいけど、二人なら大丈夫』って太鼓判押してたし」
「あの人らが言うとめっちゃリアルで嫌だ!」
「あとはね~……」
「一成、もういい、分かったから、勘弁してくれ」
 万里は一成の肩を掴んで、言葉を一節ごとに区切りながら懇願した。羞恥心のあまり死んでしまいそうだ。今日どんな顔をして帰ったらいいのだろう。
 うんうんと唸る万里に「気付いてないのはヒョードルだけだよ」と追い打ちをかけるのは可哀想で、一成はそれ以上のことは何も言わなかった。
「ヒョードルのことを想うなら、今回の事はちゃんと話しておいた方がいいよ。ちょうどウチの大学に来てるし、いっしょに帰ればいーじゃん」
「は? なんでアイツが来てんだよ」
 さらりと投げ渡された情報に、万里は目を丸くした。十座が天鵞絨美術大学に用があるとも考え難い。しかもそれを自分が知らないというのも違和感があった。
「今朝のことなんだけど、写真家志望の先輩にいいモデル居ないかって泣きつかれちゃって。話を聞いたらヒョードルにピッタリでテン上げ! ヒョードルも昨日でテスト終わって夏休み突入したみたいだし、聞いてみたら『いいっすよ』って。先輩に会ってみたらイメージ爆合いだったみたいで、モデルお願いすることになったってワケ!」
 マシンガンのように早口で告げられたいきさつを、万里の出来のいい頭はすぐに理解した。しかしその情報を咀嚼するまでは数秒の熟考が必要だった。兵頭がモデル? 何の? まさか脱いでるんじゃねぇだろうな。万里の脳内は瞬く間にその心配事で埋め尽くされたが、それは一成によってすぐに否定された。
「あ、ヌードじゃないから安心していいよ」
「いや知らねーし」
「でも気になるでしょ、オトコならさ」
 にかっと笑う一成の頭をはたいてやろうかと思ったが、ぐっと堪えて空になった豆乳のパックを握り潰した。万里は一瞬「相談するヤツ間違えたか?」とも思ったが、後の祭りだ。
「とりま、終わりの時間をヒョードルに連絡しといてね! 二人が会うまでに、それなりに情報流しとくからさ」
 任せなさいと胸を張る一成に一抹の不安がよぎる。万里は渋々十座へのLime画面を開き、「今日5限まで。悪いけど頼むわ」と簡潔なメッセージを送った。

 5限目の講義は東洋美術の歴史を簡単になぞるだけの、専門性の薄い座学だった。スライドの作り方があまり上手くない教授の、よく言えば味のある授業資料をぼんやりと眺めるだけの退屈な講義だ。
 今日は単位の有無を決める試験日なのだが、資料の持ち込みが許可されているので、余裕を通り越して面倒なくらいだ。試験監督も居らず、適当に答案用紙を埋めて帰れという教授の意思が言外に伝わってくる。
 万里は十座を待たせまいとペンを走らせた。一成の作戦に一方的に乗せられたとはいえ、十座を都合よく使うようなことはしたくなかったのだ。回答をおおかた埋め終わった頃、急ぐ万里の腕を隣に座った男子学生が無遠慮につついてきた。
「なぁなぁ、摂津。コレ何?」
 その学生とはゼミが同じだが、友人ではないというのが万里の見解だ。1年生の前期は出席番号でゼミが決まるため、メンバーは便宜的に組み分けされる。そのため、同じゼミ生であってもほぼ他人のような関係の人間も居るのだ。向こうはそうは思っていないようだったが。
「はぁ? ンなもん資料に書いてあんだろ」
「資料多すぎて探すの無理~。ちょっとだけだからさ、お願い」
 上目遣いでお願いされても、欠片も可愛くない。確か名前は斎藤と言ったか。万里は名前もあやふやな同期生にかけてやる義理はないと無視を決め込んだが、あまりにしつこく腕をつつかれるので舌打ち交じりに答えを教えてやった。
「Aの景徳鎮窯」
「なるほど~! 聞いたことあるかも。じゃ、これは?」
 授業なんて毛ほども聞いてねぇだろとツッコミたくなるのを我慢して、拒んで絡まれるのも面倒なので聞かれるままに回答を提供してやる。しかし、いくら試験監督が居ないとはいえ、こんなに堂々としたカンニングがあるだろうか。
「鎌倉時代。理由は顔が面長でちょっと丸いのと、瞼の形。あと鼻の写実性な」
「へ~、摂津ってものしりだな」
「お前、講義来て何してんだよ」
「そりゃ寝るだろ」
「まぁ寝るけどよ」
 万里も講義を真面目に聞いていたかと言われればそうでもない。単位に響かない程度にサボっていたし、出席しても90分間まるっと舟をこいでいたことだってある。斎藤と万里の決定的な違いは頭の出来で、万里は試験前に授業で配られた資料をざっと読み流しただけで雲泥の差を作ってみせたのだ。
「顔が良くて高身長で頭も良いとか神に愛されすぎじゃん。それで彼女まで居るんだろ? チクショ~! そりゃ居るよな~~~!」
「は? 彼女なんて……」
 身に覚えのない彼女というワードに背筋が凍ったが、ふと昼間のことが頭をよぎった。
「それどこで聞いたん?」
「え? 俺も又聞きだけど、三好先輩が摂津の彼女と知り合いなんだろ。今日ウチの大学来てるって。会わせろよ~、イケメンの彼女気になる!」
「ウソだろカズナリミヨシネットワーク……」
 計画を立ててまだ数時間しか経っていないというのに、選択した講義が被っているだけの同期生にまで噂が浸透しているなんて。一成の情報拡散力はすごいを通り越して恐ろしい。万里はアイツだけは敵に回さないようにしようと心に決めた。
「ていうか、見せもんじゃねぇし」
「いーだろ、減るもんじゃなし!」
 確かに見せるだけで減るようなことはないが、この男にに見せると減りそうな気がして嫌だった。
「まぁ拒否られてもついてくけど」
 イケメンの彼女って可愛い系かな、美人系かな、と勝手に心躍らせる同期生を横目に、万里は「厄介なことになった」とため息を零さずにはいられなかった。

 テストを埋め終わり、教壇に置いてある箱に用紙を入れて教室を出た。斎藤はまだ答案を埋めきっていないようなのでこれ幸いと置いてきたが、なんとテストより万里の彼女を拝むことを優先したらしく、すぐに追いかけてきた。
 万里は仕方なく斎藤を意識からシャットアウトして、スマホの電源を入れた。立ち上がるなりポップアップの通知がポコポコと画面上に現れる。不在着信が数件入っているのにげんなりしつつ通知を消していくと、十座からのメッセージ通知がやっと姿を現した。急いでアプリを起動させ、メッセージ画面を開く。
『バイクを回すから正門で待ってろ』
 もはや命令でしかない簡素な言葉なのに、万里は不思議と心が温まるのを感じた。頬が緩みそうになるのを耐えつつ、「了解。今終わった」とだけ返す。ほわほわと幸せな気分に浸りながら歩いていると、背後から突然声を掛けられた。
「あ、摂津じゃん。彼女が迎えに来るって?」
「万里くん発見! 彼女は? どこどこ?」
「いたいた! 摂津くんの彼女会わせてよ!」
 正門へと向かう道すがら、知った顔から知らない顔までどんどんと人が寄ってくる。校門に着く頃にはざっと20人ほどに囲まれてしまった。万里は周囲の声へ適当に反応しながら内心肝を冷やしていた。やっぱり怖い、カズナリミヨシネットワーク。
「お前ら揃いも揃って暇人かよ……ちょっとこえーわ」
「だって万里、いつも合コン来てくれないじゃん。彼女居るならそう言ってくれればいいのに」
 ピンク髪でいつも奇抜な格好をしている女子学生が、唇を尖らせながら文句を漏らした。馴れ馴れしく呼び捨てにしてくるこの女は、あまり会いたくないカテゴリに入る知人だ。しつこいくらい飲み会に誘ってくるのだが、そのたびに万里は「今は芝居に夢中で合コンどころではない」とハッキリした理由を伝えて断っていた。それでも諦めなかった彼女が肩を落としたところを見るに、万里が売却済と分かってやっと納得したようだ。
「なんか悔しいな。こんなイケメン捕まえられる女がどれほどのものか……見定めてやろうじゃん」
 何様のつもりなのか、奇抜な恰好をしているだけの女はまだ見ぬ万里の彼女に照準を合わせた。
「おい、あんまハードル上げんなよ」
 万里はピンク頭の女が考えていることをうっすらと察知して苦言を漏らす。正直に言えば、十座はここに集まったどの女よりも美人だと思う。だかそれは惚れた欲目も多く含まれていて、実際の彼女は少し……いやかなり強面で威圧的たっぷりの男女なのだ。周囲に妙な反応をされて十座が傷ついてしまうようなことがあっては申し訳ないし、ただでさえ自己評価の低い彼女が余計に自分を卑下してしまわないかと心配になった。

「……万里くんの彼女、大したことないんだ。かわいそう」

「あ?」
 不意にどこからか聞き捨てならないセリフが聞こえた。鼻にかかった、ねっとりした女の声。俺の彼女(仮)を馬鹿にするのはどこのどいつだと見回したが、それらしい人物ばかりで見つからない。
「えっ、摂津ってそーいう趣味なん?」
「そーいうってどういう意味だよ! 別にブスじゃねぇわ!!」
「うっそ、可愛い子にしなよ。ウチとかさ」
「うわっ、がっつきすぎキモいんですけど」
 集団が口々に勝手なことを言う。ちくしょう、あの声はどこから聞こえた? 万里は必死で辺りを見回すが、万里の彼女に対するヘイトイメージが高まる集団から口火を切った犯人を探すのは無理のようだ。
「でもウチのフォト部のモデルしに来たんでしょ?」
「えっ、じゃあカラダだけはいいってヤツ?」
  そのあまりにも下品な言葉を耳にした瞬間、万里の堪忍袋の緒は綺麗にブチ切れた。
「オイ、人のオンナにケチ付けて楽しいかよ」
「ひぃっ」
 万里は声の主の胸ぐらを掴み上げる。よく見れば講義室からついてきた斎藤だった。カンニングさせてやった恩を仇で返すとは見下げた野郎だ。
「何とか言えよオラ」
 斎藤の胸ぐらを掴んだ拳で顎をゴツゴツと強めに小突くと奥歯がガチガチと鳴った。ただのお調子者の斎藤は、万里の剣幕に気圧されて「あう」とか「ひえ」とか情けない声しか出せなくなっている。その様子がまた腹立たしくて一発ブチ込んでやろうかとした時、子気味の良いエンジン音が万里の耳に届いた。
「待たせたな摂津。……取り込み中だったか?」
 停車させたバイクのエンジンがブルルンと身震いをする。ドッドッドッとリズミカルに太い音を奏でる厳ついバイクに跨るのは、渦中の「摂津万里の彼女」である。バイクをやや斜めに倒し長い脚で車体を支えると、十座はフルフェイスのヘルメットのシールドを開けた。後ろの方で「うそ、あれが?」とつぶやく女の声がする。
「ひょっ……兵頭てめぇ、なん、なんてカッコ、してやがんだ」
「あ? 撮影で汗かいたから、そのまま着て帰っていいって」
 どうしてそんなことを聞くんだと言いたげに小首をかしげる十座に、万里は頭痛を覚えた。見た目と中身のギャップがスゴい。もう好き。
「わかった、百歩譲って撮影のことはいいとして、頼むから前を閉めろ前を」
「なんでだ、あちぃ」
「帰るまでガマンしろアホ。てめぇどんなカッコしてるか分かってんのか」
 万里は斎藤を放り捨てて、十座の姿を自分の体で観衆の目から隠した。彼女はそれだけとんでもない格好をしているのだ。
 約束通り正門前にバイクに乗って現れた十座は、全身にピッタリと張り付いたライダースーツに身を包んでいた。黒光りする革製のそれはスポーツ用というよりもはやボンデージで、十座の長い手足、くびれた腰、小ぶりな尻を艶めかしく縁どっている。それだけでも卒倒しそうなほど色気を放っているのに、胸元までチャックを下ろしているので形の良い胸の谷間がコンニチワしてしまっている。どこのAVかと叫びたくなる有様だが、不思議と下品ではない。むしろ性的興奮より先に憧憬の念が湧き上がってくる。
「せ、せ、摂津くん。ここ、この方がきみの、彼女かい」
 キャットスーツを纏った女を間近に見るのは初めてか、斎藤が震える声で聞いてくる。まずい、と思った。一成が十座にどこまで説明しているのかわからないので、もしかしたら「そんなわけねぇだろ」と一蹴されるかもしれない。そうなればこの計画は失敗だ。
 しかし。
「ああ、そうっすよ」
 万里の心配をよそに、十座はさらりと肯定してフルフェイスのヘルメットを外した。頭を振って乱れた前髪を後ろに流し、十座の顔が顕わになる。刹那、万里は心臓を思いっきり殴られたような錯覚に襲われた。
 切れ長の三白眼を濃いまつげが縁取り、太めの眉が凛々しく吊り上がっているのはいつもの事だが、いつもと違うのは眦に向かって施されたオレンジのシャドウ。陶器のような頬にはうっすらとチークが乗り、スっと通った鼻梁の下には真っ赤なルージュをさした唇が蠱惑的に微笑んでいる。少し厚めに塗っているせいか、下唇がぽってりと膨れてセクシーだ。そのかんばせは大人の雰囲気を醸しながら、若い女のみずみずしさがあった。ひとことで言えば、ド迫力の美人。莇が十座は本気で化粧をすると人を殺せると言っていたが、あながち間違いでもないようだ。
「摂津がいつもお世話になってます。これからもよろしく」
「ひぇ、は、はひ」
 十座に声をかけられて、斎藤は真っ赤になりながら首を首ふり張子のようにガクガクと縦に振った。十座の声は女にしては低いが、そのビターな低音が心地よくて痺れがくるほどだ。初めての快感に腰を抜かす斎藤を見つつ、万里は誰がよろしくされてやるもんかと内心で舌を出す。十座をバカにした罪は海より深いのだ。
「うるせーな、てめぇは俺のカーチャンかよ」
「こんなデケェ息子いらねぇよ。オラ乗れ、帰らないのか?」
 喧嘩腰だがどこかじゃれ合うような雰囲気を楽しみながら、万里は投げ渡されたヘルメットを受け取って十座の後ろに跨った。万里の彼女を拝もうと集まった学生たちは、一様に目を丸くしている。万里は「ざまぁみろ」と間抜け面どもを鼻で笑って十座の腰に手を置いた。それを返事に受け取った十座は、ヘルメットを被り直してエンジンをふかす。そして未だに放心している学友たちを残して、万里と十座は去って行った。
「……誰だよ、ブスが来るって言ったの」
「摂津と並んで身長差がそんなにないって何者?」
「男っぽい話し方だけど似合う……やだ惚れちゃう……」
「スタイルすげぇ……峰●二子かよ……」
「あんな化粧映えする美人、生で見たの初めて……」
 残された野次馬たちは口々に万里の彼女へ賞賛を送った。美男の横に立つのはやはり美女だったと。


「なにあの女。デカくてガサツなだけじゃない。あんな女に付きまとわれて、万里くんかわいそう」


 集団から少し離れたところで、地を這うような女の黒い声が夕暮れのキャンパスにじわりと溶けた。