その日の空は青かった。
埃と硝煙の立ち込めるクソみたいな街にだって、空のきれいな日はある。抜けるような青空には雲の一つもなく、ずっと向こうまで青いままだった。このぶんなら、夜もいつもより綺麗に星が見えるだろう。
それなら、最近通い始めたバーに行こうか。そこで働くウエイトレスは少し前にこの街に越してきた田舎者で、都会に染まり切っていないウブなところが可愛らしい娘だ。今宵、彼女の心に入り込む初めての男になってみるのもいいかもしれない。
いつものように下半身で物を考えていたルチアーノは、不意に小突かれた脇腹の痛みでようやく意識を正常に持ち直した。
「ってぇな、何すんだ」
「てめぇがボサッとしてるからだろ。行ってみろ、今日の仕事は」
肘を脇腹にめり込ませたまま睨んでくる相棒に、ルチアーノは負けじと睨み返す。いや、この場合悪いのは仕事中に脳内で女の尻を追いかけていたルチアーノの方なのだが。相棒は眉間の皺を深くして大きなため息を吐いた。
組織の暴れん坊で鳴らしていたルチアーノの隣に立つ男は、強面のマフィア然とした風貌をしているが、そのくせ性格は生真面目で守銭奴、浮いた話の一つも聞かぬつまらない男だった。顔がもう少し柔和なら商売でもしていた方が稼げそうな気もするが、世の中そううまくはできていないものである。
「…てめぇは休みだ。今日の仕事は俺一人で出る」
「は? 聞いてねぇぞ」
「実際聞いてなかっただろうが」
返しようのない指摘にルチアーノは眉を盛大に顰めた。この男のこういうところが気に食わない。基本的にウマが合わないのだ。叶うなら同じ空気すら吸いたくはないタイプの男だった。
そんな俺たちを見かねてか、ただの気まぐれか、われらがボスに強制的にコンビを組まされてしばらく。一度だってこの不本意な相棒と別行動をしたことはなかった。まして自分だけ休みだなんて。
「仕事中くらいマトモに頭回しとけ」
いぶかしげな顔を隠しもしない相棒に、ランスキーは大きなため息をついた。視線を前に移せば、ボスの指令を伝えに来た幹部も同じ顔をしている。
「伝達は以上だ。首尾よく進めろ」
幹部はそれだけ言うと大股で部屋を出て行った。彼の指令を一から十まで聞き逃していたルチアーノは、流石にばつが悪くなって帽子を目深に傾けた。
「お前だけで仕事とか……。金勘定の手伝いでもするのかよ」
「ハニートラップだ」
たっぷり三秒。沈黙ののち、アジトの敷地内に伊達男の絶叫が轟いた。
「ハニートラップゥウゥウウゥ⁉」
****
「今日は運がいい。君のような魅力的な男に出会えたのだから」
「私もですよ、ミスター」
聞き馴染んだはずのバリトンボイスに、媚びた甘みがどろりと溶け込んでいる。あれは誰だ。俺の相棒の顔をしたあの男は。
ランスキーの口からおよそ聞くはずのない単語が飛び出してから数時間。ヤツはあろうことか俺の行きつけのバーで、ターゲットらしき男に接近していた。
なんでもあのコワモテは女より男にウケがいいらしい。すらりと伸びた高身長とか、やたら小さい尻とか、均整の取れた胸から腰のラインがたまらないそうだ。加えて太い眉に鋭い三白眼が、一周回ってセクシーだとかなんとか……。世の中には変わった嗜好の人間もいるもので、さらにこの界隈にはそのテの野郎が多い。裏社会で力を持つと女子供は簡単に手籠めにできるから、いっそ成熟した男に下半身が動くそうだ。まったくもって分からない……はずだった。あの忌々しい相棒に出会うまでは。
「あのう、ルチアーノさん。ご注文は?」
店に入るなり店の端に陣取って、一点を凝視して動かない俺におずおずと声を掛けてきたのは、今夜のパートナーになるはずだった田舎娘だ。
「ああ悪いな、バンビーナ。ウイスキーを飛びきり薄くして持ってきてくれ。まだ酔うわけにはいかないんでね」
「ええっ、具合でも悪いんですか?」
いつもならストレートでいくはずのウイスキーを薄めるだなんて、風邪でも引いたかと疑われても仕方がない。田舎者らしく思ったことがそのまま口を突いて出てくる少女は可愛らしくもあったが、今日は彼女を視界に入れるのさえ煩わしく思えるほどだった。
「仕事中なんだよ」
「サボりじゃないですか。だめですよぉ」
彼女の背後から、俺の相棒が知らない男に腰を抱かれて微笑んでいるのが見える。ぴきり、とこめかみが動く音がして、無意識に机の上で指をコツコツとイラつかせてしまう。
ああ、そうさ。女好きで花街を沸かせるこの俺が、あのクソ守銭奴の尻に敷かれている事実を。今の俺なら、あの小尻も、細越も、鋭く不愛想な瞳さえも、魅力的だと感じてしまっている。愛だの恋だのを持ち込む気はさらさらないが、この花街の誰よりもあの男の近くにいないと気が済まない。男を抱きたいと思ったのは初めてのことだったが、それが不思議と屈辱的ではない。
それがどうしてなのか俺はまだ知らないが、生きるのが不器用すぎるあの男が、病気の弟を守り続けられるように、そばにいてやりたいと思う。まったく、少し前の俺が聞いたら卒倒しそうなものだ。
「君は僕が何者か知っているのかい?」
「知らなければ、この先を望めないのですか?」
二人の男が衆目も気にせず睦言を交し合う。同性愛なんて歓迎されたものではないが、この街では力の強い者が法を敷く。裏の世界に広い顔さえあれば、往来で男を抱こうが許されるだろう。あの男も己の権力を笠に着まくってずいぶん好き勝手をしてきたようだが、それも今日で終わりだ。なんたって、我らがボスに目を付けられたのだから。
「とんでもない。これから教えてあげよう」
するりと男の手がランスキーの尻を撫で始めた。おいちょっと待て。俺なんか昨日撫でようとして手の甲を抓られたんだぞ。それもかなり強めに。
「君のことも、教えてくれるんだろう?」
待てコラあの野郎、ランスキーのベストの中に手を突っ込みやがった。でも残念だったな。あいつ、乳首で感じるくせに触ると殴ってきやがるんだ。ご愁傷さまだぜ。
「ふふ。あなたが求めてくれるなら、ミスター」
は? 待て待て待て、ランスキーの野郎、なんで殴らねぇ。それどころか男にべったりくっついて、男の手をベストの中に誘い込みやがった。なんだその手練れた商売女みてぇなやり口は……! 俺だって誘われたことねぇのに! どこで覚えた? 誰で覚えた? 俺は教えてねぇぞ!
「ルチアーノさぁん。とびきり薄めのウイスキーですよぉ」
まだ田舎のなまりが消えない娘が手渡してきた酒を苛立ちまぎれに煽る。なんだコレ水じゃねぇか。
「だって、ルチアーノさんが薄めろって言ったんですよ」
声に出ていたらしく、空気を読まない娘がツッコミを入れてくる。こういうところが可愛くてたまらなかったんだが、今はもうあのクソ相棒のことしか頭にありゃしねぇ。
「そろそろ…行こうか。部屋を取ってある」
「うれしい。朝まで離さないで」
そんなこと俺だって言われたことないが⁉ というか、あの金勘定で息をしている守銭奴が他人と朝寝がしてみたいと言うことなんて、この世界にあるだろうか? いや、ない。なぜならば、俺すら言われたことがないからだ。
ああ、今すぐ殴り込んでコイツは俺のモンだと叫んでやりたい。そんなことしようものなら、俺がこの世からオサラバしちまうわけだが。
「それは君次第かな」
「案外いじわるなんですね」
……わかった、認める。俺の相棒のハニートラップはスゴい。ついでにシコい。だが、気に食わないのは一つだけ。
「俺だってまだしてもらったことねぇのに!」
だん、と拳をカウンターテーブルに打ち付ける。店を出ていく相棒の背を憎々しげに睨み付けてやると、ヤツが不意に振り返った。そして見たこともないような妖艶な笑みを見せたかと思えば、べぇっと舌を見せてから男の腕に絡みついて、今度こそ扉の向こうへと消えていった。
「ルチアーノさん、もしかして…やきもちですか?」
「…とびきり強い酒を持ってきてくれ、可愛い子ちゃん」
歯に衣着せぬ田舎娘のボディーブローを食らいつつ、俺はほぼ水のウイスキーを飲み干した。
次の朝、身ぐるみ剥がされた男が路地裏のゴミ捨て場で見つかったのは、また別のオハナシってことで。
おわり