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万里は頭を抱えた。
「万里さん! ストーカーに遭ってるって本当ですか? しかも犯人は大学に潜り込んでいて、万里さんの傍に居るかもしれないなんて……もっと早く話してくれたらよかったのに! でも、十ちゃんが恋人のフリをしてくれるんですよね? よかった……これでストーカーさんも諦めてくれたらいいですね! でも、本当に好きな人と恋人のフリをしなきゃいけないなんて……胸が苦しくなります。まるで『かざぐるまの恋』の主人公みたい……」
「前回までのあらすじ、あんがとな椋。今すぐお口をチャックしてくれ」
寮に帰るなり、玄関先で椋に捕まった。
いつもなら流してしまえる椋の妄想トークだが、今回ばかりは頭から尻まで混じりっけなしの真実だ。十座はガレージへバイクを停めに行っているので、本人に聞かれていないのが不幸中の幸いだった。
「ていうか何で知ってんだよ」
「カズくんから聞きました! 水くさいですよ、万里さん」
もう勘弁してくれ、カズナリミヨシネットワーク。
「まさか寮の奴ら全員……」
ストーカー被害のことを知られたのも予定外だが、一成の作戦が知れ渡るのは少し困る。せめて同室だから知っているだけであってほしかった。
「みんな知ってますよ! あっ、でも十ちゃんへの気持ちは万里さんが伝えるべきだと思うので、僕たち黙ってますからね! ファイトです!」
「サンキューな、椋。涙出そう。恥ずかしさのあまり」
淡い期待もむなしく、ストーカー撃退作戦はMANKAIカンパニーに知れ渡ってしまっていた。万里は椋の熱い応援にいろんな意味で涙しつつ、自室に直行する。今リビングに顔を出すと、他の団員たちからも椋と同じ反応を食らうに違いないからだ。
ほどなくして十座も部屋に帰ってきた。無理やり閉めさせたライダースーツの胸元は、寮に帰るなりガッツリ開けてしまったようだ。
「おい、前開けすぎだって言ってんだろ」
「すぐ風呂行くからいいだろ。これクソあちぃ」
革製のぴったりしたスーツに通気性は皆無で、真夏にそんな格好を強いられているのだから十座の言い分は分かる。だけどその姿で視界をウロウロされるといろいろ困るのだ。自身の魅力に無自覚な十座には、これ以上何を言っても無駄のようだ。万里はため息で下心をはき出して、着替えの準備を始めた十座の背中に小さく呟いた。
「なぁ、悪かったな。巻き込んで」
十座はタンスから着替えを探す手を止めて、すっかり塩らしくなった万里に呆れ眼を送った。
「らしくもねぇ気ィ回してんじゃねぇよ。俺で役に立つなら存分に使やいい。要らなくなるまでは付き合ってやる」
「はぁ? 俺は別にお前を使おうだなんて……」
十座は時々、自分のことを物のように扱うことがある。そんな態度を目にするたび、万里はえも言われぬ悔しさに唇を噛みしめるのだった。万里が十座を要らなくなることなんてあるはずがない。むしろお前だけが欲しいと言うことができたら、十座の態度を改めさせることができるのだろうか。
「……正直、恋人がどんなもんか俺には分からねぇ。でもてめぇなら上手くできんだろ。こんなナリでも助けになるなら嬉しい。ヘマしねぇように努力はする。ストーカーのこと、さっさと解決してぇだろ」
十座は万里の気持ちなんて露知らず、それだけ言うと胸元を大きく開けたまま着替えとタオルを持って風呂へ行ってしまった。
「ちくしょー……そーいうんじゃねぇだろ……」
あれが十座なりの気遣いだということは分かる。仲間として心配してくれているのは嬉しいし、頼ってよかったとも思う。だけど、十座は「万里はストーカーを撃退するために好みでもない女と恋人を演じている」と思い込んでいる。だから気を回して、自分のことを物のように扱えばいいと言ってくるのだ。それがとても寂しくて。
「クソ、恨むぜストーカー女……」
こんなつもりではなかった。
恋だの愛だのが入り込まない対等な関係で、十座と同じ景色を見て同じ空気を吸うのは存外に心地よかった。もうしばらくこの関係を続けていくつもりだったのに。もちろん、恋人というゴールを望む気持ちもあるが、密かに思いを抱くだけでも幸せな場合もあると初めて知った。その幸せを、見ず知らずの女に踏みにじられたのだ。
たとえ問題を解決して日常が戻ったとしても、万里はもう十座をただのライバルとして見ることはできないだろう。演技とはいえ、恋人という役割を受け入れてくれた十座に心が躍っている。演技の姿勢を崩さず、わざと距離を置く十座の態度に深く傷ついている。それらはすべて、十座への恋心から溢れだす感情だった。これを元に戻すのはもう不可能だ。
今の関係を変えたくはなかったのに。この恋心はゆっくりと大切に温めて、いつかの未来にそっと渡すつもりだったのに。万里は泣きたくなる気持ちを抑え、ベッドに身を沈めて目を閉じた。
どれだけそうしていただろうか、眠るでもなくただ無心で転がっていたら、突然スマホが鳴きだした。画面には見知らぬ番号。いつもなら無視するが、虫の居場所が悪い万里は応答のボタンをスワイプして電話を受けた。迷惑だと怒鳴りつけてやれば少しはスッキリするかもしれない。
『万里くん、私変な噂を聞いたんだ。あなたに私じゃない彼女が居るって』
通話が始まるなり、ストーカー女は名乗りもせずに話し始めた。噂なんかじゃない、そう叫ぼうとしたが、相手の早口は止まらない。
『あんな不良女に捕まって、怖いよね。可哀想な万里くん。でも安心して、私が何とかしてあげるから。あの女に脅されてるんだよね。馬鹿みたいに大きくて、怖い顔。口調もしぐさも乱暴だし、きっとすぐ手が出ちゃうんでしょ?』
「やめろ」
『男に勝とうとでも思っているのかしら。同じ女として恥ずかしいわ。男の人を立てることもできないなんて』
「違う」
『ちょっとスタイルがいいからって勘違いしちゃって。恥ずかしくないのかな、みっともない』
「黙れ!」
『あんな女、万里くんにはふさわしくないよ』
「うるせぇ! テメェにアイツの何がわかるってんだ!」
万里はたまらず叫ぶと、スマホを力任せに放り投げた。壁に激突してかなり大きな音がしたが、壊れたかどうかなんて構っていられなかった。
お前なんかに何が分かる。俺がどれだけ兵頭のことを好きか知らないくせに。兵頭がどれだけ優しい人間か知らないくせに。万里は頭を掻き毟り歯を食いしばった。唇の隙間から漏れる唸り声は、怒りと悔しさがまざってぐちゃぐちゃだ。
「摂津? おい、どうした」
風呂から帰ってきた十座は、足元に万里のスマホが落ちているのを見つけた。画面を見ると通話が続いている。ベッドに蹲る万里と床に転がったスマホを交互に見比べて状況を把握した十座は、スマホを拾い上げて万里のロフトベッドに上がり、端末が声を拾うようにやや大きめに話し始めた。
「落ちてたぞ。寝ぼけてんのか?」
十座はできるだけ優しい声を出して、万里の背を抱きしめてやった。電話の相手には声だけ聞かせればいいのだが、怯えたように丸まった大きな男が可哀想になって体が勝手に動いてしまったのだ。「大丈夫、大丈夫」と囁きながら、サラサラの髪を撫でる。すると万里は寝返りを打って、十座の胸に顔を埋めるようにしてしがみついてきた。そして震える声で呟く。
「……なぁ、兵頭。俺、お前のこと好きなんだ」
「ああ」
十座は一瞬だけ目を見張った。演技にしては熱のこもった台詞に、万里の本気が見て取れる。しかし十座には、彼が完成度の高い演技でストーカー女を諦めさせようとしているのだとしか受け取れていなかった。
「他の誰かじゃない、お前だけが俺を熱くさせるんだ」
「そうか」
万里は十座の胸にすり寄って、好きだ、好きだと繰り返す。彼の息づかいで胸が熱くなるのを感じながら、十座は「俺もだ」と呟き、通話を切った。
まるで本物の恋人たちのような切なさに十座の胸が詰まる。だけどこれは演技。電話の向こうに居る勘違い女を黙らせるためのエチュードだ。芝居なら日常的にやっているし、恋愛を題材にしたストリートACTも珍しくない。なのにどうして、こんなにも胸が締め付けられるのだろう。
好きだと言われて勘違いしそうな自分に反吐が出る。この男を苦しめているのは、そういった身勝手な想いだというのに。恋と名前を付ければ聞こえはいいが、相手に届かなければただの暴力だ。十座はストーカー女の二の舞にならないようにと堅く心を閉ざした。そうやって一人になるのは得意だから。
「おい、もういいだろ。離せ」
十座はいつの間にか腰に回っている万里の腕を軽く叩いて、引き剥がそうと試みた。だがぴくりともしない。
「……やだ」
「はぁ? ふざけんな、おい」
十座は子どものように駄々をこねてしがみつく万里に戸惑いながら「相当参っているんだな」と理由を付けて、いつもより小さく見える背中を撫でてやった。
「ったく、シャキッとしろよ。リーダーさん」
敢えてリーダーと呼ぶことで、万里との間に線を引く。押しつけられた恋心に憔悴した万里のためにという十座の気遣いが、かえって彼の胸を抉ったのにも気づかずに。
スマホのスピーカーから、ツーツーと無機質な音が通話の終了を告げている。女は唇を戦慄かせ、呆然と画面を凝視している。限界まで開かれた目は赤く血走り、眼球を守ろうと涙腺から生理的な涙が分泌され、頬を伝った。
「取り返さなきゃ。可哀想な私の王子様。『今度は』幸せになろうって誓い合ったのに」
そう、彼と彼女が出会うのは、運命に定められていたことなのだ。
私は深海に棲む人魚で、あなたは人間界の王子様。あなたを助けた人魚姫は私なのに、悪い魔女が化けた女に騙されて、愛を誓ってしまった。これがおとぎ話の世界なら、私は泡になって消えるでしょう。だけど安心して、万里くん。私はおとぎ話の人魚姫みたく馬鹿な女じゃない。きっとあなたを助け出してみせるから。
ほの暗い闇の中で、女はとろりと恍惚の笑みを漏らした。