知らない間に彼女ができてた摂津の恐怖体験 - 3/5

 カラリと晴れた空は雲一つなく、抜けるように青い。見つめていると眼球がじわじわと灼かれていく気がした。十座は空から目を離し、キャンパスを行き来する学生たちに視線を移した。
 昼休憩を半分ほど過ぎた今の時間は特ににぎやかで、絵の具や石灰まみれのつなぎ服を着た学生や、不思議なオブジェを背負った学生、流木のような木材を二人がかりで運ぶ者や、巨大なキャンバスを荷台に積んでフラフラとどこかを目指す者など、いかにも美術大の学生らしい姿が見える。そういった様子の者ばかりではなく、どちらかと言えば一般の大学生らしい恰好の学生の方が多い。強いて言えば葉星大の学生より髪や身に着けているものの色が多い気がする。十座にはファッションの良し悪しはよく分からないが、カラフルに着飾った女子学生たちは素直に可愛いと思った。
「兵頭さん。今度はこっちを向いてくれる?」
「あ、はい」
 呼ばれるなり、カシャリとシャッターの小気味の良い音が聞こえた。
 ここは天鵞絨美術大学の中庭の一画である。土を盛って作ったなだらかな丘を人工芝で覆い、そこに有名なデザイナーが寄進したという前衛的なオブジェが点々と配置してある。庭全体が一つのアートになっているらしいのだが、芸術的センスの乏しい十座には「邪魔じゃねぇのか」という感想しか抱けなかった。
「うん、いいね。そう、こっちを少し睨んで……ああ、そうそう。……ううん、あそこのオブジェが邪魔だな」
 芸術家の目線で見てもやっぱり邪魔なんだな、と十座は可笑しくなって表情を緩めてしまった。刹那、シャッターが下りる。
「ごめんごめん。今の顔もよかったからさ。兵頭さんって迫力ある美人だけど、笑うとかわいいんだね」
「……眼科行った方がいいっすよ」
「冗談じゃないんだけどな」
 ファインダーから顔を外しておっとりと微笑むのは、十座にモデルを依頼した天美大のフォト部に所属する、相田という男子学生だ。十座より2つ上の3年生で、一成と同期である。線が細くよく言えば優しげな雰囲気で、もっと素直に表現するとパッとしない気弱そうな顔つきをしていた。
 一成を通して受けた相田のモデル依頼は、当初の予定ではバイクとライダースーツのカットのみだったが、十座の容姿が彼のイメージとあまりにも合致していたらしく他のカットも……できれば卒業制作になるような作品群を作りたいと言ってきた。十座は初めこそ渋ったが、大学にいる間も違和感なく万里の傍に居られると気付いて依頼を受けることにしたのだ。
 ストーカー女はどういうわけか、寮での様子や芝居の活動には一切言及してこないという。ならば大学の中で目を光らせておいた方が効率的だ。言い訳に使うようで申し訳なかったが、向こうも卒業制作に取り掛かれるのだからwin-winと言ってしまってもいいだろう。
「ちょっと休憩しようか」
「っす」
 十座は相田に促されるままに近くのベンチに腰を下ろした。朝からずっと撮影していたので流石に疲れた。たっぷりと葉を蓄えた広葉樹が燦々と差す陽光を遮ってくれていて、少しだけ涼しい。
 十座は短くため息をついて、胸元をつまんでTシャツの中に風を送った。今日の衣装はTシャツにジーンズというラフなもので、化粧もファンデーションをうっすらと塗ってリップで唇の色を整えている程度だ。今日みたいな気温の高い日に革製のライダースーツなんて着ていたら倒れてしまうだろう。
「はい、お疲れさま」
 相田に手渡された水のペットボトルを「あざす」と言って受け取った。
「いやぁ、今日は特に暑いね」
「36度まで上がるって聞きました。真夏日っすね」
 うへぇ、ほんとに? と相田が項垂れた。具体的な気温を聞くと余計に暑く感じてしまう。
「こんなに暑いのにわざわざ来てもらってごめんね」
「いや、それは大丈夫っす。摂津についていられるし……あ、じゃ、じゃなくて」
 相田があまりに申し訳なさそうに言うものだから、十座はつい本音を零してしまった。利用しているみたいで聞こえが悪いので隠していたのに。慌てて誤魔化そうとしたが、相田はそれを照れ隠しに受け取ったようだ。
「あはは、いいよ。彼氏の大学に潜り込む口実にはちょうどいいよね」
「そっ、そんなんじゃねぇって……」
 否定しかけて、万里とは今、表向きは恋人同士なのだと思い出した。下手に言い訳をしてボロが出てもいけないので、十座は頬を赤らめながら「すんません」と小さく謝った。
「だから気にしないで。むしろごめんね、二人を引き離しちゃって」
「さすがに授業にまでは潜り込まないんでいいっす」
「そりゃそうか」
 相田はまたアハハと軽く笑った。人の良さがにじみ出るような素朴な笑みが好印象だ。十座は収まらない熱を気温のせいにして、蝉の鳴き声に耳を傾けた。
 不意に沈黙が流れた。人々の喧騒が遠くに聞こえる。中庭を囲う校舎には人波が絶えず流れているのに、中庭には十座と相田の他に人影はない。まるでここだけ切り離されたようだ十座はと思った。まっすぐに視線を伸ばすと、その先に2つの棟の二階部分をつなぐ渡り廊下がある。窓ガラスが大きいので行き交う人がよく見えた。
「ここ、面白いでしょ? 人間観察にぴったりなんだ」
 相田は通路を見つめたまま話し始めた。渡り廊下には東の棟から5人組の女子、西の棟から3人組の男子が出てきて、すれ違いざまに手を振り合っている。
「俺さ、人間観察が趣味なんだ。それでずっと人の顔ばっかり見てたらさ、一度見た顔は忘れないようになって。今じゃウチの学生と教授、事務員さんとかよく来る業者さんの顔、全員覚えてるんだ」
「全員……スゴいっすね」
 ちょっとした特技、と相田が照れ臭そうに微笑む。大学に関わる人間は1,000人じゃきかないだろうに、その全員の顔を記憶しているなんて特技の枠を超えている。平凡な雰囲気の相田だが、その内には確かな才能を秘めているらしかった。
「摂津くんを初めて見たのはここでね。あの東の棟から歩いてきて。あぁ、綺麗な顔の1年が入ったなって」
 相田は春が好きだった。新しい顔が増えるからだ。多くの顔を見て記憶してきた相田にとっても、万里の顔は近年まれにみるほどキラキラ輝いた美貌だった。
「背も高いし、写真に撮ると映えるだろうなぁって思ってたら無意識に目で追っちゃって。ちょっとキモいよね、俺男なのに」
「いや、別に……」
 万里の顔がいいのは事実だし、それが写真家の感性に響くこともあるだろう。そう伝えたかったが、十座にはうまく言葉にすることができなかった。
「そうこうしてたら学園祭でモデルをやってさ。やっぱり才能のある人間は注目されるものだね。その頃から彼の周りに人が増えて、もっと観察し甲斐が出てきたんだ」
 キレイな顔を拝めるだけでなく、そこに集まる人間も眺めることができるので、相田にとって万里の存在はありがたいものだった。同じ男として憧れや嫉妬を感じないでもないが、こうも土俵が違うと舞台を眺める観客の気分になってくる。
「その頃から彼の傍にずっと同じ女の子が居たからさ、彼女ってあの子のことかと思ってたんだけど。違ったんだね」
 万里を絶賛する相田の言葉に他人事ながら背中がかゆくなってきたころ、相田がぽろりと零した情報に十座の耳が動いた。
「ずっと同じ女の子……?」
「うん、兵頭さんとは真逆の印象の子かな。でも、今思えば摂津くんと会話しているところは見たことなかったし、近くに居ても集団の一人みたいな立ち位置だったから、ただのファンだったのかもしれないね」
 相田は言いながらカメラを操作し始めた。いつも学内を撮り歩いている彼のカメラには、いろんな学生の姿が映っているのだ。
「今日もその子を見かけたんだけど、摂津くんに話し掛けていたよ。そういえば、僕が見る限り初めてかな」
 カメラの液晶画面に表示されるサムネイルを送り、今朝の画像を呼び出す。すると出てきたのは、ややボケているが人気の少ない廊下で何やら会話をしているらしい万里と、背の低い女の写真だった。
「これこれ。浮気現場かと思ってスッパ抜いちゃった……というのは冗談。ほんとは手前の小鳥を映したんだけど、背景に写り込んでて」
 相田が画像のズームを解除すると万里と女の写真は背景になって、小鳥がまさに飛び立とうとする写真に変わった。女の顔は見えなかったが、一成に見せてもらった犯人のイメージ図に雰囲気が似ていた。それだけでは何の確証にもならないが、十座は胸がざわつくのを感じた。
「これ、いつの写真すか?」
「昼休憩に入る少し前だから……12時少し前だね。ほら、俺たちが小休憩してたとき。これがどうかした? やっぱり、彼氏の浮気現場は気になるかい」
 時計を見ると針は12時半を指していた。接触からそこそこ時間が経ってしまっている。まずい、と思った。
「いや、そういうんじゃねぇっす。摂津は今ストーカーの被害に遭っていて、俺はそれを解決するために恋人のフリをしているんです」
 十座は急を要する事態と判断し、相田に事の子細を離すことにした。
 万里がストーカー被害に遭っていること、だんだんと行為がエスカレートしてきて、解決のために万里の恋人を演じていること、相田の見た女がストーカーの可能性が高いことなど要点をかいつまんで伝えた。相田は予想外のことにキョトンとしているが、だんだん事の深刻さを理解してきたのか、真剣な面持ちになっていく。
「だから相田さん、ここがどこだか教えてくれねぇか。嫌な予感がするんだ」
 意志の強い金色の目が相田を見据えた。陽光が虹彩に反射してパチパチと弾けて輝く。それは太陽に翳したべっこう飴のように素朴で、それでいてショウウィンドウに飾られた宝石のように高貴な美しさをはらんでいた。その美しい瞳に捕らわれて、ごくりと相田の喉仏が上下する。
「相田さん」
「あ、ああ。そういうことなら協力するよ。…この写真を撮った場所の近くに、使わなくなった部活棟がある。そこが怪しいね」
 ついてきて、と相田に先導されて、十座は部活棟へと急いだ。