3
今日の万里は機嫌が良かった。
撮影の約束があるという十座を伴って登校し、恋人アピールのためだからと嘯いて手をつないでキャンパス内を歩いた。十座からは強めの肘鉄を喰らったが、振り払われることはなかった。入学して半年が経過してだいぶ見慣れてきたキャンパスを、想い人と手をつないで歩く。それは存外に楽しいものだった。
今日は2限と3限にテストがあり、それが終われば万里も夏休みに突入する。さっさと終わらせて、撮影をしている十座を冷やかしてやろうと企んではまた胸を躍らせた。
「じゃ、3限終わったら連絡すっから。帰んじゃねーぞ」
「……チッ、分かった」
「舌打ちすんなよ、可愛くねぇな」
万里は名残惜しげに手を離し、中庭へと向かう十座の背を見送った。浮かれた気持ちでテストを受けていてもそこは人生スーパーウルトライージーモードの摂津万里。一般教養のテストなんて高校の延長みたいなもので、終了20分前には余裕で終わってしまった。終わった者から退席を許されていたので、答案を試験監督に渡して講義室を出る。
今日は真夏日だとテレビで気象予報士が言っていた通り、立っているだけでじわりと汗が滲んでくる。湿度も高めで、不快指数の高い気候だ。けれど万里はかりそめの恋人のことで胸がいっぱいで、気候なんて気にもならなかった。
帰りに十座と近くのカフェに寄ってみようか。ケーキのひとつでも奢ってやれば喜ぶだろうと、万里は無意識に頬を緩ませた。
その時、背後であの声が聞こえた。
「おつかれさま、万里くん。今日でテスト終わりだね」
ぞくり、と肌が泡立つ。受話器を通していないが、間違いなくいつも電話を掛けてくるあの声だ。媚びた雌の声が万里の足にねっとりと絡みついて、動きを鈍らせた。
動けなくなった万里の視界に、くるりと女の影が舞い込んでくる。女は親しげに愛らしい笑みを作って、万里の腕にすり寄って来た。その指先は不気味に冷たく、喉の奥が引きつる。
「夏休み、どこに行く? やっぱり海かな。ねぇ、今年は海外に長期滞在しない?」
応じてもないのに、女はベラベラと喋り続ける。万里には女が何を言っているのかほとんど理解できていなかった。
「パンフレット持ってきたんだ。向こうで一緒に見ようよ」
女の細腕が万里をひとけのない方へとつれて行く。女の手なんて簡単に振り払えるはずだった。ふざけるな、迷惑だと叫ぶこともできるはずだった。なのに、できなかった。頭の中で女の声がリフレインして、そのたびに彼の心を深く抉り踏みにじる。
「二人きりになれるところ、教えてもらったんだ」
こっちだよ、と女は万里の手を引いて、暗がりへと消えていった。
天美大には、ずいぶん昔に使われなくなったまま放置してある部活棟がある。現在では認可されていない建築材を使っているらしく、耐震性の不安もあるため夏休みの間に取り壊す予定だ。キャンパスの隅に追いやられた小さな2階建ての建物は、埃をかぶって沈黙していた。
1階の一番奥の部屋に着くと、女は「ここだよ」と言って軋む扉を開いた。部屋の中には、古い彫刻や布のかかったカンバスが打ち捨てられ、床にはいくつかの画材が転がっている。建物ごと処分するつもりなのだろう。
カビ臭さで喉がイガイガする。万里はその不快感にふと正気になって、掴まれた手を振り払った。
パシン、と乾いた音が何もない建物に響く。
「どうしたの? ここなら落ち着いて話ができるんだよ」
「……話すことなんか何もねぇよ」
万里は低く冷たい声で女を拒絶した。彼の顔面からは、ごっそりと表情が消え失せている。それは「つまらない人生を流すための顔」だ。かつての悪友たちには「何を考えているのか分からない」と酷評されたものだった。相手との意思疎通を完全に拒絶するその顔は鳥肌が立つほどに美しく、浮世離れしていた。
その表情を認めた瞬間、女の顔が嬉しそうに溶けた。
「ああ、やっと見れた。万里くんの本当の顔」
女はチークを乗せた頬をさらに上気させ、うっそりとほほ笑む。塩っぽい童顔には似合わない濃いアイシャドウが浮いて見える。赤すぎるリップは最近の流行だが、フリルの多いパステルカラーのワンピースにはアンバランスだ。
真っ赤なルージュならアイツの方が似合っていた。アイシャドウを入れるなら、アイツの切れ長の目の方が映える。そこまで考えて、万里は目の前の女がキャットスーツを着ていたときの十座を意識していることに気づき、吐き気が込み上げてきた。
「私ね、ずっとあなたを見てきたの。高校の頃からよ。あの頃の万里くんは何でもできて、皆の中心で、そしてずっと、綺麗な顔をしていたでしょう」
ベタベタに赤を塗りたくった唇がやかましく動く。
「もちろん、今でもすごくカッコイイよ。だけど万里くん、高校3年生の秋ごろから少しおかしくなったよね」
万里は本能的にそれ以上聞いてはいけないと直感した。けれど、体が動かない。刷り込まれた不快感が心身にまとわりついて抵抗ができないのだ。
「きっと芝居なんて遊びを始めたからよ」
刹那、万里は足場がガラガラと音を立てて崩れたような錯覚に襲われた。
どうして、と思う。
名前も知らない女がどうしてそんなことを言えるのか。
やっと見つけた外の世界と、そこで生きる自分をなぜ否定されなければならないのか。
何も知らないくせに。
俺がどれだけ無味乾燥な毎日に耐えてきたか。
アイツの背中を追いかけてからというもの、一瞬一秒が宝物に変わった。
それを踏みにじることは、誰にも許されないはずなのに。
「この、クソ女…ッ」
万里は腹に力を込めて退路に足を向けた。一刻も早くこの牢獄から抜け出さなければ。今できる最善の行動は、このイカレた女から少しでも距離を置くことだ。
「どこ行くの? だめだよ、旅行の予定を立てなきゃ」
「ふざけんな、 誰が行くかよ!」
そう言って口を開いた瞬間、顔面にスプレーを噴射された。冷たい霧状の液体が容赦なく口内に入り、反射的に唾を吐くが霧散した液体を完全に吐き出すことはできなかった。
「んだ、これ…ッ」
ぐらりと視界が揺れる。
「大丈夫、ちょっと落ち着くだけの薬だから。体に害はないよ」
「あ、頭が……っ」
万里は歯を食いしばって埃まみれの床に倒れ伏すのだけは耐えたが、立っていられず力なくへたり込んでしまった。
「万里くん、お芝居を始めてから私の話を聞いてくれなくなったよね。私に黙って美大なんかに行っちゃうし。一緒の大学に行こうって約束したのにひどいよ」
そんな約束した覚えもないし、そもそも高校時代にこの女と面識があった記憶すらなかった。
「ねえ、万里くんにこんな酷いことをしたのは誰? あなたは他の人よりもっとずっと上に行けるはずだよ」
やめろ。俺のことを知りもしないくせに。
「誰があなたをこんなふうにしたの? 可哀想な万里くん。お芝居なんかに惑わされて」
ふざけるな。俺がこの道を見つけて、どれほど救われたことか。
「もうやめよう。いいんだよ、私がやめさせてあげる。もう嫌だよね、逃げたいよね」
違う、違う。俺は見つけたんだ、俺だけの道を。唯一の人を。
「私が、昔のあなたに戻してあげるから……」
「おい、その辺にしといてやってくれ」
耳を塞ぐこともできず気が狂うかと思ったその時、黒い靄を切り裂くように清廉とした声が室内に響いた。
「誰っ!?」
突如現れた第三者の声に女が甲高い声を上げる。
「名乗るほどの者でもねぇよ。そこでヘバってる野郎を回収しに来た」
女の金切り声を受けてもびくともしない力強い声。姿を見なくても、その声が誰かなんてすぐに分かった。
「ひょ、うど……」
「何だ摂津。みっともねぇな」
「るせー………」
女を刺激しないようにと相田を部活棟の外で待機してもらい、単身で乗り込んできた十座は、ためらいもせずまっすぐに万里のもとへと歩を進めた。
「立てねぇのか? おい、摂津」
「触らないで!」
十座が万里の肩に手を置こうとした瞬間、十座の体が吹き飛んだ。女が思いっきり体当たりをかましたのだ。乱雑に置かれた石灰の像に、二人の女がもつれ込むように激突する。十座は硬い像に背中を叩きつけられ、息を詰まらせた。
「ぐっ!」
「あんたが! あんたが悪いんだ! 私の万里くんを盗ったんだ!!」
ばしん、ばしんと十座の頬が女の小さな手にはじかれる。十座ならそのか弱い暴力をいなすことなんて容易いはずだった。だけど彼女は黙って狂気に染まった女の暴力を甘受している。
「万里くんは私が好きって言ったの! あんたじゃない、私なの!!」
平手は次第に拳に代わり、十座の胸を力一杯殴る。万里はその惨状をやめさせようと足に力を込めるが、立ち上がることもできない。
女は十座をひとしきり殴ると、肩で息をしながら拳を解いて泣き出した。十座はゴホっと一つだけ咳をして、馬乗りになった女をそっと腹の上から降ろしてやる。
「気は済んだか」
何してんだよ、と万里は胸中で声にならない悲鳴を上げた。十座が女に殴られる筋合いなんてないはずだ。そもそも万里が十座に協力を仰ぐのを渋ったのは、こうなる可能性があったからだ。彼女のフリなんてさせて、ストーカー女が十座に手を上げることがあったら。そんな懸念が今、現実のものになってしまっている。
「何よそれ…… 悪いのはあんたのくせに、被害者ヅラしないで!」
激昂した女は床に転がっていたナイフを掴んだ。それは彫刻に使う小刀のようで、錆びてはいたがその切っ先は鋭利に尖っている。
まずい、と万里が息を詰まらせた瞬間、女はナイフを十座に向けて突き出した。
「やめっ…」
やっと出た万里の声には何の力もなく、埃臭い部屋に溶けた。女はナイフを持つ手に全身の体重をかけて、十座に倒れ掛かった。
「兵頭、ひょうどう……ッ!」
万里は腹這いになって十座ににじり寄る。つまらなくて死にそうだった毎日をぶち壊してくれた人。何度でも争って、諦めずについてきてくれる人。傍に居ることが当たり前のようで、ずっと隣に居てほしいと思う人。一生のうちに唯一の相手に出会えたとしたら、彼女しかいない。他の何を奪っても、兵頭だけは取り上げないでくれと心の中で叫んだ。
「うるせぇな、ちょっと黙ってろ」
普段と変わらない凛とした十座の声が、万里の悲痛な呼び掛けを撥ねつけた。十座はナイフの錆びた刀身を掴んで、それが腹に埋まる直前で止めていたのだ。女が驚いてナイフを引こうとするが、圧倒的な力の差でびくともしない。諦めてナイフを離そうとする手を十座が上から捕まえた。
「ひっ」
「おいアンタ。何言ってるかよく分かんねぇけど、コレを使うなら覚悟を決めろ」
十座の三白眼がギラリと殺気に満ちる。O高最強と言わしめたそのまなざしは、ただの女には圧が強すぎる。女はがくがくと体を震わせて、それでも目を離すことができずに大きく開いた瞳からボロボロと涙を零している。
「どんな理由があったとしても、暴力は暴力だ。一度殴っちまったらもう後戻りはできねぇ。誰かを傷つけた過去は一生アンタにつきまとう。乱暴者はずっと怯えられて生きていかなきゃならねぇ」
好きこのんで喧嘩に明け暮れていたわけじゃない。誰にも心配を掛けたくなかった。自分のことで親兄弟を泣かせたくなかった。だから強くなるしかなかったのだ。
本当なら他に手はあったのかもしれない。しかし不器用な十座には、降りかかる火の粉を払うことしかできなかった。そのせいで周りに人は居なくなった。
孤独を作った過去に後悔なんてないが、ふと考えるときはある。自分も普通の少女のようにカラフルに着飾って友達とキャンパスを歩くことができたのだろうか。この女のように、誰かを好きになって恋や嫉妬に狂うこともあったのだろうか。―――今更考えたってどうしようもないことだけれど。
「それでも俺を消したいなら、このまま刺せばいい。だけど俺もタダでやられるつもりはねぇから、全力で来い。売られた喧嘩は買うまでだ」
十座は諦めがちな自分を飲み込んで、ナイフを引き寄せた。女が少し力を込めるだけでナイフは十座の脇腹に埋まってしまうだろう。だけど女にはすでに戦意はなく、立っているのがやっとなくらいだった。
「やだ、いやだっ! 私は昔の万里くんに戻ってほしいだけなの! ポッと出のあんたなんかがどうして隣に居るの! そこは私の、ずっと前から私の場所だったの!」
女が大きくかぶりを振って涙の粒をまき散らした。あまりにも独りよがりな物言いにため息が漏れそうになる。
「それなら尚更、覚悟決めて奪いに来い。摂津にとって今の生活より夢中になれるモンが過去にあったってんなら、思い出させてやりゃあいい。さぁ、どうする」
十座のぎらついた金の瞳が燃える。女は蛇に睨まれた蛙のように怯えきって柄から手を離して後ずさり、バランスを崩して尻餅をついた。
完全なる戦意喪失。項垂れて泣き崩れる女を見下ろし、十座はナイフを部屋の隅に投げ捨てた。刀身を力いっぱい握っていたせいで手のひらは錆にまみれて、血が滲んでいる。
「……昔の摂津がどれだけ魅力的だったか知らねぇが、俺は今のコイツの方が好きだ。だいたい、他人が選んだ道に干渉するモンじゃねぇ。本当に好きなら、ちょっとはコイツの話も聞いてやることだな」
落ち着くと刀身を握っていた手が疼き始めた。早めに消毒をしとくかと考えながら、十座はへたったままの万里の前にしゃがみ込む。
「おい、まだ立てねぇのか? 病院行った方がいいか」
「……いや、それはいい。悪ィけど肩貸してくんね? とりあえずこっから出たい」
全身が痺れて身動きは取れないが、口はだいぶ動かせるようになってきた。支えがあれば少しなら歩けるだろう。万里はなんとか自力で座りなおして、手を貸せと十座に向かって腕を伸ばした。
「仕方ねぇな。ちょっと待ってろ」
「は? おい…」
十座は万里をいったん置いて、いまだ泣き続ける女に向かい合うようにして膝をついた。
「キツイこと言って悪かったな。落ち着いたらあんたも出ろ。古い建物だし、何があるか分からねぇから」
そう言うと女の膝にハンカチを置いて踵を返す。助け起こしてやらなかったのは、十座なりの優しさだった。
「ほら、行くぞ。掴まれ」
万里の腕を肩にかけ、半ば背負うようにして立たせる。180㎝を超える青年の体を危なげなく支えた十座は、去り際にちらりと女の様子を窺った。彼女は十座のハンカチを握りしめて、何かを呟いていた。そのくちびるが、「ごめんなさい」と動いているように見えた。
「セッツァー! ヒョードル! ああ、嘘でしょ……!」
部活棟を出たのと同時に、顔を青くした一成が駆けてきた。相田が呼んできてくれたらしい。埃にまみれ、一人で立つこともできない万里を目の当たりにして一成が絶句する。
「一成さん。よかった、コイツ重いんで片方持ってくれねぇか」
「何があったの!? ていうかヒョードル、手!! 血!!」
一成がわぁわぁと騒ぎながら万里の肩を片方支えてくれたので、万里の体が少し軽くなる。十座はそこで初めて、ホッと胸を撫で下ろした。本当を言えば、かなり怖かったのだ。殴られたことや刺されそうになったこともそうだが、今の自分を散々に否定された万里が壊れてしまわないかと不安だったのだ。
それから一成が寮に一報を入れ、手の空いている者に迎えを頼んでくれた。車を回してきたのが左京だったのには少し驚いたが、二人はそのまま銀泉会のかかりつけ医のもとへ連行され、万里は軽い検査を受け、十座は傷の処置をしてもらった。二人とも軽症で済んだのは不幸中の幸いだった。
今日はもう休めと左京に部屋へと押し込まれた万里と十座は、不器用なやさしさに甘えて自室に腰を落ち着けた。万里は自分のスペースに置いた一人掛けのソファに身を沈め、まだ少し痺れている手首をくるくると回している。強めの麻酔をかけられたようで、動かしているのに感覚が鈍いのが気持ち悪い。
「まだ変な感じするか?」
ぐねぐねと手首を回す万里を十座の手が諫める。いくら感覚が鈍いからと言って、無理に回しているとケガをしかねない。
「ああ、なんかよく分かんねぇ」
「あんま回すな。ヘンに痛めるぞ」
「うん……」
万里は歯切れ悪く答えながら、十座の手を眺めた。白い包帯が巻かれた手のひらは、錆びた刀身に傷つけられている。
「なぁ、ここ座って」
「なんでだよ」
「いいから」
手を引かれて、十座は軽く舌打ちをしながら万里の横に腰かけた。ソファはさほど大きくないので、否が応でも体が密着してしまう。
「ああいうのもうやめろよ」
「……そうだな。非常事態とはいえ、俺みたいなのに彼女面されて気持ち悪かったろ。しっかり弁えてるから心配すんな」
それだけ言って腰を浮かせようとする十座を慌ててソファに戻し、万里は「そうじゃねぇよ」と言葉をつないだ。
「気持ち悪いとかねぇから。お前は? 演技とはいえ、俺の彼女だって言いふらされてヤだったんじゃねーの?」
それはずっと気になっていたことだ。今回の計画で置いてけぼりにされていたのは、十座の気持ちだ。万里はストーカー被害という非常事態を盾にして、十座の気持ちを踏みにじってしまっていないかとずっと考えていた。
「ヤじゃねぇ。困ってたんだろ、お互い様だ」
「だけどお前、大学じゃ俺の彼女ってことになってるぞ」
万里は十座の腹の中を探るように、じわじわと理詰めにしていく。
「そもそも大学が違うんだし、別れたことにすればいい。……好きなやつができたとき、邪魔になんだろ」
「そんなのいねぇし」
「今はそうでも、いつかできるかもしれねぇだろ」
「じゃ、おまえはどうなの」
万里の腕が十座の腰に回り、二人の距離がまた近くなる。
「……言わねぇ」
「なんで? ホントに好きなヤツが居るから?」
「言わねぇって言ってんだろ。離せ」
顔を近づけると、猫のように突っぱねられた。万里はそれでも負けじと十座の肩を抱き、ぐいぐいと引き寄せる。
「なぁ、そいつ俺が知ってるやつ? ケンカつえーの? 俺よりデキんのかよ」
「ちょっ、何なんだ、てめぇにゃ関係ねーだろっ」
「あるわボケ! てめぇが好きだって言ってんだろ!」
ひときわ大きな声が二人きりの部屋に響く。
十座は万里の大声をノーガードで顔面に浴びて、目を丸くしている。
言ってやった、と万里は鼻を鳴らした。正面切って正拳突きをかましたのだ、いくら鈍感な大根女でも、好きの意味くらいは分かるだろう。その証拠に、十座の頬がみるみるうちに赤くなっていく。
「お前、今の俺の方が好きだって言ってくれただろ。仲間としてって意味でも、もう無理だ。俺はお前を諦められねぇ」
十座に出会う前の万里は、閉鎖空間で燻るだけの惨めな存在だった。そんな過去に戻してやるというあの女が心底不快で、怖かった。十座に出会って殻を破り、こんなに広い世界へと羽ばたくことができたのに。羽をもがれて地に落ちるのはごめんだった。そんな窮地を救ってくれたのもまた、十座だった。だからこの想いはもう、止められない。
「……諦めるのは、俺の方だと思ってた」
十座の声が震える。
「俺みたいなやつ、誰かに好かれるわけがねぇ。乱暴者で、不器用で、怖がられて……友達すらまともに居なかった俺が」
小学校の同級生に怪我を負わせたあの時から、十座の周りには著しく人が減った。それからというもの、人との関わりを極力避けて生きてきた。あの女に言った「誰かを傷つけた過去は一生付きまとう」という言葉は、自分自身の末路を揶揄してのことだった。
「俺なんか何の価値もねぇのに。ここに来て、初めて友達と言えるやつらができた。誰かと一緒に登下校するのも、休みの日に家族以外の誰かと出かけるのも初めてだった。頼りにされて、気にかけてもらえて嬉しかった。お前にまでそんなことを言われると……今までのことぜんぶ、夢だったんじゃねぇかって思っちまう」
劇団に入り、自分でない何かを演じながら自分を探す楽しさ。ただ嫌うだけだった自分を好きになる手段を得た喜び。誰かに受け入れられる幸福。それらがすべて夢だったとしたら。ある日目が覚めて一人に戻っていたら、今まで通りに生きていくことができるだろうか。
「バカだバカだとは思ってたけど、てめーほんっとに大馬鹿者だな」
「あぁ?」
十座の独白を黙って聞いていた万里は、深いため息をついて十座の額に自分のそれを押し付けた。
「いいか大根女。確かにてめぇは乱暴者だが、なりふり構わず殴り散らすようなアホでもねぇだろ。周りの認識ってのは定着してしまうとなかなか覆せねぇけど、過ぎたモンはどうしようもねぇ。それはてめぇも分かってることだろ」
諦めるのではなく、飲み込むのだ。兵頭十座は強い女だ。この女は幼いころからそうやって生きてきたらしい。その姿がどうしようもなくいじらしく、愛しく思えた。
「てめぇの価値は俺が決める。一人で勝手に落ち込むな。強面だ何だとけなしてるけど、てめぇ相当美人だから自覚しとけ。迫力すげーけど、整いすぎてキツい顔なんだよ。俺はすげー好み。タッパもあっていいじゃねぇか。特に俺らみたいな職種だと武器になんだろ。手足長くてほせーし、腰もくびれてラインがエロいし、なのにここはでけーし」
「はぁっ!? ちょ、オイ! どこ触ってんだ、ばかっ! 揉むな変態っ!」
いつの間にかソファに押し倒されるような体制で万里の下に捕まった十座は、足をばたつかせて抵抗を試みる。だけど体制が悪く、抵抗らしい抵抗にはならなかった。調子づいた万里はいたずらに唇を歪め、十座の豊満な胸を揉みしだいた。柔らかな脂肪の塊が万里の手によって形を変えるのは非常に愉快だ。
「やっ、摂津、やめっ、やめろって! あぅっ!」
むにゅん、と胸を持ち上げるように揉んだ瞬間、十座の身体が小鹿のように跳ね、甘い嬌声がこぼれ落ちた。
「かわいい声出せんじゃねーか」
「こ、のやろ……!」
飛んできた拳をひょいとかわし、万里は十座の無防備な唇を軽々と奪った。刹那、二人はふっくらと弾力のある感触を共有する。万里にとってキスは初めてじゃないが、自分から求めてしたのは初めてだった。十座はどうやら初めてだったようで、驚きのあまり呼吸も忘れて硬直している。その唇を啄むと、またびくんと身体が跳ねた。
「おもしれぇな、お前」
「ぶっ飛ばすぞ……」
くつくつと笑いながら輪郭を指でなぞると、十座の不機嫌な手に払われた。
「やってみろよ、お嬢ちゃん」
無下にされた手を彼女の脇腹に添えてぞわぞわと擽るように動かせば、十座がまた小さく啼いた。それがたまらなくかわいくて、愛しさが募っていく。
「いきなり女扱いすんな気色わりぃ!」
「するだろ、好きな女なんだから」
いろいろ吹っ切れた万里は目の前の女に自分の想いを理解させることに徹すると決めた。失うかと思ったのだ。目の前で、何もできずに好きな人を傷つけられた。あんな思いはもうごめんだ。
「わっ、分かった、分かったから一旦離れろ。あっ、馬鹿、だから揉むなって」
遠慮とともに理性が流れた万里の指が、十座の胸の頂にある柔らかい部分を押した。その瞬間、ばちんという乾いた音ともに万里の視界に星が散った。
「調子に乗んな、すけべ!」
十座はぷりぷりと怒って部屋を出て行ってしまった。あとに残されたのは右頬に紅葉をつくった色男がひとり。
「あー。やりすぎた?」
ふはっと機嫌よく笑いを零す万里の顔に、不安の色はもうない。あの女はもう二度と現れることはないだろう。十座が完膚なきまでに叩き潰してくれたからだ。
自分を否定されることがあれほどまでに恐ろしいことだとは思わなかった。見つけたはずの未来への道が消え失せて、また外の世界が遠のいた気がした。開いたはずの扉が閉まる直前に、こじ開けてくれたのが兵頭十座だった。つくづくあの女は俺の世界を揺さぶるものだ。万里はしみじみと考えながら、乾いた心が潤っていくのを感じた。そして頬に紅葉を飾ったまま、十座の後を追って部屋を出た。